マンサクにコロナ

マンサクのころなり郷を出で立ちぬ

 

新型コロナウィルスが感染拡大。政府はバタバタと休校を要請、野球もサッカーも自粛。株は下がり、裁判員裁判も延期。マスクがない。

冒頭の俳句は、コロナをよみ込んで、遊んだもの。

 

f:id:zukunashitosan0420:20130518091012j:plain湯殿山への道で)

 

さて、マンサクは

山の雪が溶けはじめるころ、地味な花をつける。花には遅い雪も降ることがある。

派手な花しか花だと思っていなかった田舎の小僧に、マンサクの良さなど解ろうはずがなかったし、気にも留めたことがなかった。50にも60にもなって故郷の春をしのんだ折に、ふと目に入って「ああそういえばこんな木があったなあ。」

 

故郷の山のマンサクは、茶色っぽくて地味そのものだった。枯れ木に紛れて気を付けてみないと気が付かないほどだ。里にはフクジュソウキクザキイチゲ、そうしてカタクリなどが咲きだす。

 

この時期は、人生の旅立ちの時でもあった。

半世紀前は、今では考えられないほど、家を離れることが人生の大きな節目であって、独りで生きていく、故郷に錦を飾れるようになるまでは戻らない、そんな一種悲壮な意識が自分にも親にもあったように思う。

過去の自分との決別、そして心細さと緊張。そんなものが綯い交ぜになって胸の底が波うつ。雪国のまだ冷たい風が襟元に吹きこみ、足がシーンと冷えてくる。

 

以前、春の湯殿山に参拝したとき、雪でまだ開いていない道を歩いて上ると、途中で本当にきれいなマンサクに出会った。知っている茶色の花ではなく、ずっと白かった。春の女神、のように思えた。足元には水芭蕉の花がふくらもうとしていた。