細径や花も色なき風の中
(イタドリ)
秋は白で白秋、春は青で青春、そして朱夏、玄冬。これは中国の故事を取り込んだもの。北原白秋の名ももここから来ている。
何故秋は白なのか、というのも愚問だが、そう思ってみれば秋は確かに白かもしれない。紅葉の鮮やかな赤、黄色があるじゃないかと言われれば、それはそうだが、秋の情趣は、それらの色の背後にある、派手な色のない、色を超越した白なのだ。そんな気がする。白秋はまた素秋ともいわれ、素も白の意味だが、こちらはさらに色のない透明な感じがする。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家
さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮
この三夕の歌に読みとれる美学は、花や紅葉ではなくむしろ取り立てて何もない風景や、地味な槙(杉ヒノキなどの針葉樹)の林にしみじみとした秋の情趣があるとしている。いかにもワビサビの鬱屈した美意識であるが、分からないでもない。
(ヨモギ)
俳句では、「色なき風」が秋の季語。これは、「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」という紀友則の歌に寄っているものという。その心は上記の和歌と同じなのだろう。白とは言わないが透明な色彩感。
ビリーバンバンの「白いブランコ」はやっぱり白でないといけないのは、微妙に古い日本的美意識をくすぐるからだろうか。
堤防を歩けば、どんな季節でも白い花に出会える。でも、なまじ白秋などという言葉を気に掛けるばかりに、白い花に気がひかれてしまう。
ススキや荻は、言わずもがな。センニンソウも真っ白だ。
けれど今日は、色なき風の風情に合わせて、地味だけれど薄ら白いイタドリ、ヨモギ、メドハギを登場させよう。
(メドハギ)
言い忘れてしまったが、風が吹くと葛の葉が裏返る。裏は白いので葛の原は斑の白が光る。これも捨てがたい秋の白だ。
もう一つはアキノノゲシ。白、とは言えないかもしれないが、ノゲシが黄色いのに比べてずっと色白である。花だけを見ると、何となく繊細な感じがする、が、実は逞しくて野性味たっぷりの草である。