囲碁AIと子規

碁にまけて厠に行けば月夜哉  子規(明治31年

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(今日現在対局が行われている、第46期名人戦。ライブネット配信である)

将棋の藤井聡太さんが叡王タイトルを獲り、10代での3冠は史上初というニュースが駆け巡っている。囲碁では井山裕太さんが全7冠は失ったものの、依然として第一人者として君臨している。また、仲邑菫さんというめっぽ強い12歳の女の子が現れてきて、私もファンである。

 

囲碁将棋は、この数年で急変した。人工知能が人間より強くなり、より勝率の高い、有効な手を人間に教えてくれるようになったからである。そして一手一手単位で、勝率を評価するというとんでもない事態になってきた。人工知能が高評価する手を人間が学んで、それを採用する棋士が勝っているという。

そのため従来は悪手と言われたものが見直されたり、良手が手ぬるいと評価を下げたりという価値の変換が起こっている。そして概して激しい殴り合いの接近戦?の碁が多くなっている気がする。

ここに至って、伝統的な囲碁のバランスの美学が影を潜めてしまったように思うのは、素人感覚か?

 

子規は囲碁を楽しんだようだ。データを調べると「碁」が使われている句は20ある。

下手の碁の四隅かためる日永哉 明治29年

眞中に碁盤すゑたる毛布哉   明治33年  この頃はまだ体を起こすことができたのだろう。

死の数日前まで新聞掲載していた随筆「病牀六尺」に、囲碁将棋についてふれた記事があり、

「碁将棋の手といふものに、汚いと汚くないとの別がある」

と書いている。9月10日掲載なので死の9日前である。

子規は、平生は温順な君子然とした人が汚い手を打ったり、泥棒でもしそうな人が正々堂々とした手を打ったりすることがある、として精神分析をしたら面白いだろう、と言っている。

 

私も最近は遠ざかっているが碁が好きなので、この汚い手、というのが興味を引く。

これはひとつには、そこまで追い詰めなくても、いい塩梅のところで手を打ってもいいじゃないか、という感じだと思う。碁はバランスのゲームだという美学がその底にあり、余りにしつこく迫られると汚い感じがするのは確かなのだ。また、碁には古来良い形、悪い形といわれる石の並びがあって、悪い形を打つくらいなら、碁を負けてもいいというような芸術肌の碁打ちもいるくらいだ。悪い形を平気で打つのが、汚い手で、そんなにまでして勝ちたいか?と嫌がられた。

ところが現代棋士、特に井山名人本因坊は、優勢でも決して手を緩めずとことん最強の対応を追及する傾向がある。「まあこの程度で」、というような妥協がなく、勝ちになっても鉾を収めない。従来の悪形を意に介さず打つ場面も往々にみられ、衆目を集める。そのため無理をしてやりすぎて逆転ということも時おりあるようだ。それは彼の美学なのだろうが、AIの考え方と似ているところも感じる。それだけ、現代の囲碁将棋はギリギリのところで勝敗が決まる厳しい世界になったということか。

子規に言わせれば、AIの碁は汚いのかもしれない。AIの手を採用しない棋士も、同様の想いかもしれない。

いずれにせよ、碁の世界がレベルアップしているのは確かなのだが、我ら一般の囲碁好き庶民にとっては、余りにもシビアな手の評価は、夢が無いように思えて歓迎はしたくないものだ。

今日の囲碁将棋を見たら子規は何と評価するのか。好奇心いっぱいの合理的な子規のこと、案外AI派かもしれない。

 

九月は子規の祥月。死のせまる床で、なんでまた囲碁将棋の手など考えていたのだろう。

修竹千竿灯漏れて碁の音涼し 明治35年

竹林の七賢などを思わせる句だが、もう寝たきりの子規は掛け軸などを見ていたのではないかとも想像できる。

秋の気配を感じる頃になると、この激しい楽天的な青年を自然に思い出してしまう。

 

(ネットを見ていたら、子規は日本棋院の「殿堂入り」をしているようだ。)