この愚にも静かに偲ぶ子規忌あり
(最近の鶏頭は優しい、優しすぎるくらい)
子規の命日は9月19日。明治35年、その年の柿を食うことなく壮絶な生涯を閉じた。この時季多くの人が子規を偲んでいるに違いない。子規を思いだすことは、きっと誰にとっても心に力を与えられることでもあるのだろう。私は叱咤される気がするが。
「九月十四日の朝」という文がある。死の4日前に書かれた、というより虚子が口述筆記をしたものだ。これは9月20日の「ホトトギス」に掲載され、この文の後に「子規子逝く」と子規の死を伝える報があるという。「病牀六尺」の最後の文は9月17日なので、それより3日ほど前になる。
こんなことが書かれている。
朝、子規が目覚めて、おいおいというと妹と虚子が起きてきて、雨戸をあけ、蚊帳を外す。子規は喉の渇きを感じて甲州ブドウを10粒ほど食う。「何ともいえぬ旨さであった」。それから不浄のものを妹に処理してもらう。前日子規の両脚は膨れ上がって一分も五厘も動かせなくなり、非常な苦しみに襲われ、「病室には一種不穏の徴を示して居る」。と書いた後で、子規はこう続ける。
「今朝起きてみると、足の動かぬことは前日と同じであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得たためであるか、精神は非常に安穏であった。」
そして横向きになって動かぬ顔のまま、庭を見てその様子を描写する。糸瓜は痩せて花は2,3輪しか咲いていない。正面に女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそれより少し低く5、6本散らばっている。秋海棠はなお衰えていない。そしてまた言う。
「余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない」。「秋の涼しさは膚に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心持であった。」
拷問のような苦痛との戦いの最後に、一瞬おとずれた安穏。子規はこの不思議をしっかり書きとめた。これを読むとこちらも胸の中が一瞬楽になり、そしてこの平安を与えてくれた何かに、誰かに感謝したい気持ちが湧いてくる。
「何だか苦痛極まって暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いてみたくなって余は口で綴る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。」
しかし子規はリアリストだから、神も仏もない、こんな風に不思議としか言わない。子規らしい。
この中で、子規は庭の鶏頭について5,6本と言っている。動かせない体で、眼の動く範囲で見たものである。
論議を起こした「鶏頭の十四五本もありぬべし」を思い出す。この句は明治33年のものだが、「ありぬべし」は病床に伏している視野で全体は確認できないが、そのくらいはあるはずだよ、という単純な理解でいいのかもしれない。
「九月十四日の朝」を読んで子規を偲びつつ、そんなことを思った。