啄木のヤナギ

やわらかに啄木泣くなり川柳
 
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堤防を歩いていると、日々、ヤナギの色が濃くなっていくのが分る。数日前までは幾分みどりや黄色がかってぼうやり膨らんできたなと思っていたら、もうしっかりした色になっている。ヤナギにもいろいろ種類があるようで同定が難しく、私の近辺では、黄色い花をつけて大木になるものが堤防に生い茂っている。もう黄色の花は散り始めている。千曲川に多かったネコヤナギは見られない。
数年前に春の北上川を走ったときに、河原にはうっそうとヤナギが生えていた光景を思い出す。啄木の歌うヤナギはどういう種類だったのだろうか。
 
やわらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
 
この時季のヤナギは正体がハッキリしないので、わたしはヤナギを見るたびにいらいらさせられ、いままで好きになれなかった。そういう意味で、啄木のこの歌には、ただでさえ気まぐれな詩人の、ましてや春先のおぼつかない時季の不安定な精神が覗かれるようだ。
 
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などと歌を口ずさみながら歩いていると、何か木を叩くような音が聞こえる。
まさか、と思って目を凝らすと、コゲラが枝でドラミングしているではないか。このタイミングは、まるで下手な田舎芝居のようなシチュエーションである。
コゲラは逃げ隠れもせずに、ちょこちょこと枝を移動しながらドラミングしている。人を警戒するようすもなく、私もこんなに間近でしっかりみたのは初めてだった。
 
啄木の歌集は、高校の頃一時夢中になって読んだ。新潮の文庫だった。結核の療養所に入院している年上の従姉妹を見舞って、同じ歌集をあげてきたことがあった。
従姉妹は、
背中を大きく切った傷跡があるけど、みてみる?
と言ったがわたしは断った。
 
いま「一握の砂」をぱらぱらと捲ってみると、「かなし」「あわれ」「泣く」などの単語がたくさん散らばっていて、今思えば演歌のようにみえてくる。
啄木には、「われは知る、テロリストのかなしき心を」とか、「はてしなき議論の後  フナロードと叫び出ずるものなし」などという革命的心情の詩があった。今の閉塞の世界に生きていれば、啄木は何をするのだろうか。