馬酔木散るほろろ

馬酔木散るほろろほろろと暮るるまで

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(もう花柄になった馬酔木)

今年も庭のアセビが終りになった。1月末から咲いて2ヵ月半。花の少ない時期にずいぶんと楽しませてもらったし、春先にはメジロやヒヨに蜜を与えておおにぎわいの食堂ともなった。
毎年、花が衰えるころ私は花柄を2,3日かけて摘むことにしている。摘めば来年の花つきが良いといわれて、めぐり来る儀式のように摘んでいるのだが、その効果のほどはわからない。
ただ、毎年同じ時季に咲いてくれる花に、毎年同じ時季に手をかけてやる、そうすることで自分もまた循環する自然の一部になったような気がするのだ。何も考えず鋏を動かしていると、鋏の音だけがパチッパチッと自分の耳に聞こえてくる。花は触ればほろほろと崩れ落ちて、地面がいっぱいになる。つくばいの中もいっぱいだ。樹冠は花が大きく数も多い。脚立をたてて手を伸ばして一つずつはさみで切り取っていく作業は、私には決して楽なものではないが、次第に無心な満足感に包まれる。
 
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(2月末頃の盛り)

花の咲き誇るを愛でるのは当然だが、こうして花の後始末をしてやるのも自然な心情なのかもしれない。などと考えていると(何も考えないと言ったばかりだが?)、しばらく前の映画「おくりびと」を思い出した。鳥海山を仰ぐ庄内平野を舞台に、遺体に最後の化粧をする納棺師という変った仕事につく若者の葛藤と成長を本木雅弘が演じたもので、しみじみと心に残る映画だった。
 
じゃあ花柄摘みは、いわば「花おくりびと」ではないか。
人を送ると同様に、花を送ることも命に対する敬虔な感情、いわば宗教に近い心情がその底辺にあるのではないか。そもそも花を活けること自体が、修験道の供花行という花(常磐木)を活けながら山中を回る修行であり、池坊はもと山伏だったという。花を活けることが修行なら、花を送ることもまた修行であってもいいだろう。
回りくどかったが、言いたかったのは、花摘みの単調な作業がある種法悦のような快感だという単純なことだ。
 
などと訳もない思いをめぐらしながら、一つずつ花殻をきりとる。一本の木だが、まだまだ先は長い。まだ暮れるまではだいぶある。