村里のサクラを見に


                                千年のさくら百本の支柱
 
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(本郷の千年桜)

国道52号、いわゆる身延街道筋にある桜を見に出かけた。
身延山久遠寺のしだれ桜は余りにも有名だが、メジャーでないほうがのんびり花を楽しめると思い、向かったのは、山梨県南部町の「本郷の千年桜」と「原間のイト桜」。いずれも花は満開で、カメラマンが2人ほど、そして老二人連れがちらほらと来る程度で静かな花見になった。
 
「本郷の千年桜」は、立派な棚田の間の小道を登りつめると、まさに満開で迎えてくれた。メジャーでないといっても県指定の天然記念物。エドヒガンザクラの古木で樹齢は600年以上といわれ、堂々とした樹幹である。その樹幹の内部を根のようなものが何本も通っていて、これは地上約5mの位置で樹幹の空洞中に根をおろしている珍しい状態なのだそうだ。花は随分白い。むしろ素っ気ないほどの色であり、シロヒガンとも呼ばれるとのこと。ここは廃寺の跡なのだという。棚田の上部から、里人をいつも見下ろし、里の人はみな花守りだったのだろう。
 
(一里はみな花守りの子孫かや 芭蕉)

 
「原間のイト桜」は、やはり廃寺の境内跡にある。一本の堂々たるしだれ桜で、樹齢は150年から200年と言われ、ここ南部町の天然記念物に指定されている。花はこちらも随分と白い。空中に妖しく枝を張り巡らし、枝先は地面に届くほど垂れ下がっていて、ある種の不気味さがある。木の下には墓や石碑が並んでいるのも、そういう印象を与えるのかもしれない。お寺の桜、という以上に何かを感じてしまう。
 
              里は寝て月天心のさくらかな
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(原間のイト桜)
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枝垂れ桜をみていると、ある種の霊威を感じるのは私だけではないだろう。豊かさ、艶やかさやはかなさもあるが、それを通りこしてなにか命の凄絶さ、空恐ろしさのようなものがある。それが桜の妖しい魅力になっている。
柳田國男は信州に枝垂れ桜の巨木が多いこと、しかも墓所や寺に多いことに関心を示して次のように書いている。

・    事によると霊場殊に死者を祭る場処に、是非ともしだれた木を栽ゑなければならぬ理由が、前代にはあったことを意味するのかも知れぬ。
・    神霊が樹に依ること、大空を行くものが地上に降り来たらんとするには、特に枝の垂れたる樹を択むであらうと想像するのが、もとは普通であったということである。
  (しだれ桜の問題」「信濃桜の話」)
前代までは、枝垂れ桜は観光客の愛ずる美などではなく、神が降りてくる目印、死者が空に登る階段であり、神の聖なる高速道路であったのかもしれない。
これによれば、桜の樹の下には死体があるというというイメージは、何かを言い当てているのだ。
・・・・(旧ブログの再掲)
 
先年、山梨県の木喰の里を訪ねて国道300号を走っていて、たまたま市之瀬の妙圓寺という寺の桜が目にはいり立ち寄ったことがあった。豪華可憐な枝垂れ桜だったので、メモとして掲載。こういう出会いも楽しいものだ。
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(ふとみかけた妙圓寺のしだれ桜)