寂しい帰り花

明日からはまた冷えるぞよ帰り花
 
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ユキヤナギの狂い咲き)

ふと気づくと、ユキヤナギがちらほらと花をつけている。本当に雪の時期に開いてしまった。そういえば先月末には、ライラックが一番上の枝先に一房の花を咲かせた。初冬のライラックを私は初めて目にした。
いずれも、いわゆる「帰り花」だ。
 
でもさすがに花はちょぼちょぼ。
暖かさにつられて思わず咲いてはみたものの、予想に反して、まったくの時季外れであり、世間の風はつめたく、迎え入れてくれるふうもない。なすすべもなく寒風にさらされ枯ゆくのみである。

この姿が、俳人の目に訴えるものがあるのだろう。俳句の冬の季語には、「返り花」「忘れ花」とか「狂い花」などがあり、句もたくさんあるようだ。
だが、「帰り」や「返り」は私は何か違和感を感ずる。
「返り咲き」というと、たとえば大相撲などで、妙義龍が三役に返り咲くか?などといわれる。囲碁の世界でも、かつて5冠を制覇した張栩九段が、先日国民栄誉賞を受けた井山7冠に勝ち、名人位に返り咲いた、などという。
このように「帰り」や「返り」というと、かつての位置に再び戻るという語感である。これは時季外れの開花にふさわしいものではない。
 
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ライラックの狂い咲き)

私のあてずっぽうだが、「かえり」という言葉は、もともとは「変わり」ではなかったろうか。変な時期に咲いた、変わり者の花、の意味とすれば「帰る」「返る」よりもずっと分かりやすい。
では自動詞の「変わる」が他動詞の「変える」に変化するのか、と言われると、さて?そういう例があるのかどうかよくわからない。でも私は、「かわり花」が「かえり花」にいつの間にか横滑りすることがあっても、そう不思議に思わない。