クマ捕り・・・秋山郷の「熊曳き唄」

藪こぎや熊除けのスズ頼りなし
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(網走のモヨロ遺跡から出た セイウチの牙製の熊 長さ3センチ)
「熊はモヨロ人たち北方民族の山の神様であった」(「モヨロ貝塚」米村喜男衛)

熊は本州では最大の野獣なので、畏れかつ崇められていた。そして毛皮も胆も肉も貴重だった。だが案外クマをうたったものは少ない気がする。クマは山奥に住むものだし、それを相手にするのは、平地の農耕文化と違う山の文化だからだろうか。
万葉集を調べても1首しかない。(巻11 2698)
じゃあマタギなどがいた東北には民謡などにクマがでてくるかといえば、私は余り知らない。「なめとこ山の熊」が思いつくくらいだ。
 
ところが、長野県の北はずれにある秋山郷に「熊ひき唄」があった。これは「日本のワーク・ソング」という珍しいCDを知って手に入れたものである。
大きな熊を捕って部落に帰るときの祝い歌だという。みんな見に来いと誇らしげな台詞だが、調べは鄙びたのどかなもので、笑いながらつい一杯やりたくなる気になってくる。
メモとしてCDの歌詞を記載しておく。唄う人がいれば、秋山郷を訪れて生で聞いてみたいものだ。
 
ハァ 苗場山頂で熊とったぞ
ヨーエトナー ヨーイトナー 
ハァ 引けや押せやの 大力で
ヨーエトナー ヨーイトナー 
ハァ この坂登れば ただくだる
ヨーエトナー ヨーイトナー 
ハァ 西と東の大関
ヨーエトナー ヨーイトナー
ハァ じさまもばさまも でて見られ
ヨーエトナー ヨーイトナー 
 
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( クマの剥製: ふじのくに地球環境史ミュージアム展示)
市川健夫氏によれば、
ここ(秋山郷)の猟師は志賀高原から草津温泉野反湖、さらに新潟県赤湯あたりまで遠征するが、とれたクマはどんな遠隔地でも、雪上を曳いて帰る。クマの肝は万病に効く特効薬で、需要が多く、・・・金の価格より高く、そのためかインチキ製品が多い。そこで秋山郷では獲物をそのまま持ち帰り、大衆の面前で解体する習わしがいまだに維持されている。(「信州学入門」信教出版部)
 
鈴木牧之は江戸時代後期のベストセラー本「北越雪譜」を著した新潟県魚沼の人だが、彼はまた秘境秋山郷を探索し自然の厳しさ、村人の貧しい生活を「秋山記行」に書き残している。
その中で、折りよく秋田からマタギが来ていたので話をきき細かに記している。マタギは秋田の在の人で、奥羽から秋山郷、そして草津へと彼ら独自の山奥の道をたどって猟をしながら移動しているとがかかれている。
 
この山を行き来して生活している民の姿は、平地の農民には見えにくい姿であったろう。牧之も興味津々だったに違いない。
市川健夫氏はまた、
秋山郷には猟師が多いが、小赤沢の山田長治さんは秋田マタギの五世である。マタギは猟物を追って、奥羽山系を南下し、500kmも離れた秋山郷までやってきて、秋山の美女に魅せられて定着した。とも伝えている。
 
ちょっと話が飛躍してしまったが、ついでに宮本常一氏は「山に生きる人びと」で
マタギはある意味で縄文期以来の狩猟を主とした生活様式をもっともよく伝えているものと見てよいのではなかろうか。・・・(牧之の聞き書きしたマタギの)その行動半径は実に広いものであるといえる。そしてそのように行動範囲がひろい場合には19世紀初めにあってもなお狩猟によって生活することが出来たわけで、縄文期以来の生活がそこにあったことになる。
と指摘している。
縄文時代は、三内丸山遺跡が教えるように、自然資源を上手く活用しながら定着生活をしていたというイメージに変化してきているが、小林達雄氏の縄文カレンダーをみれば、冬は狩猟の比重が増え、クマも書かれていて、やはりこうした狩猟生活は縄文以来、連綿と続いてきたのだと考えざるを得ない。
 
秋山郷の「熊ひき」は、必ずしも熊の胆のためではなく、縄文的共同体の共同の祝いの名残のようにも、わたしには思えてくる。

参考までに、牧之は「北越雪譜」に越後での熊捕りのことがくわしく書いている。
冬の終り頃が猟期で、わなを仕掛けて石を落としたり、熊の穴を見つけて煙などで追い出し、出てきたところを突いたり、という方法だというが、経験を積んだ剛勇の者は「ひひろ蓑」をまとい自ら穴に入り、熊が「ひひろ蓑」をきらって身をよけるので、その脇を通って穴の奥まで入って、奥のほうから蓑で追い出したと物騒なことも書かれている。「ひひろ蓑」とて山の草で作った漁師用の軽い蓑、というだけで特別なものではない。