ネジバナ・モジズリ・ヒダリマキ

ネジバナや父祖伝来の左巻き

 

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 別名で、ヒダリマキとも言われるらしい。ただし左巻きと右巻きといっても、花茎の上から見た場合と下から見た場合は逆になるので、右左の定義はあいまいなのだそうだ。しかも逆巻きのものが結構みうけられる。写真の左から2本目は他とは反対巻きだ。

  

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れ初めにし我ならなくに 

百人一首にある源融の歌だが、私は子どものころ「我なら泣くに」だと思って美女の泣く姿を想像していた。高校になって「奥の細道」の解説などから勘違いに気づいたのだが、かえってこの歌に覚える私のセンチメンタルは増幅した。「誰ゆえに乱れ初めにし」などの恋情は、藤村の中に生まれ変わり、恋に恋する田舎少年を夢中にさせた。源融が、光源氏のモデルだということを知ったのは、もう少し後になる。

 

ネジバナが、別名モジズリソウといわれるのは、陸奥、福島の信夫にあったもじずり石で染める模様が捩じれて見えて、ネジバナの花はそれに似ているから、などといわれるが、はっきりしたことは分からないらしい。花を見れば、即物的ネジバナなのだが、古典のイメージを重ねて、重層的に陰影のあるものにしている。その複雑さを遊ぶという、日本の高度な繊細な自然観照文化である。

 

とか何とか、

理屈っぽく、ネジバナのことを考えていたら、偶然があった。

実は先日、図書館で、不図、寺山修司の文庫本を手に取って、それを借りてきていた。これまで彼のものはまったく読んだことがない。

枕もとに積んでいたのだが、今朝、文字通り、手当たりで手にしたら、この本だった。ぱらっと開いてみたら、「さよならヒットをもう一度」という短編。読みすすむと「福島信夫丘球場」が、舞台で出てきた。信夫(しのぶ)。もちろんしのぶもじずりの信夫である。あれあれ!

お話は、逃げられた女を追って、女の郷里福島に来た私が、たまたま高校野球の球場に出くわした。その試合でさよならヒットを打った高校生が、その後プロ野球では目がでず転落して、10年後、窃盗で逮捕されたという新聞記事を読み、私は昔のことを思い出す。さよならヒットで、自分も女と別れる決断をしたのだったが、・・・。という10ページほどの読みものだった。

寺山修司が、信夫もじずりの悲恋を逆パロディーとしたのかどうか、その点は分からない。

 

こんな偶然があるものなのだ。

ちなみにもじずり石は、芭蕉が見たときはひっくり返って半分土に埋もれていた。今は公園ができてしっかり整備されているという、が訪れたことはない。足下に、ネジバナが咲いているかもしれない。

どうということのない話。