ナツツバキまたはブッダの沙羅双樹

沙羅の花真実白きは落ちてより

 

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庭のナツツバキが、盛りをむかえた。

毎年巡り来る祭りのごとく今年も賑やかに咲き誇り賑やかに落下している。一日花なので、朝咲いて夕方には落ちる。暫く見ている間にも、ボトッと音を立て落ちてくる。潔いというか、贅沢というか、もったいない気がしてくる。

落ちた花弁は、一日二日はそのまま白く、地上に咲く花のようである。上を向かないでいいので、むしろ木に咲く時よりもよく見えて美しい。しかし三日目くらいになると黄ばんで縮んで、捨てられたテッシュペーパーそっくりになる。

で、頃合いを見ては木の下を掃き、塵取りにあふれる花クズを始末しなければならない。そしてすぐ次には花柱をつけた子房?が落ちてくる。我が家ではこれがたくさん落ちてきて、結実したものはあまり目にしない。一般にそうなのか?

掃除は厄介だが、でも、それがまた楽しい責務なのだ。

 

ナツツバキは、別名を沙羅(サラ:シャラ)という。いうまでもなく、ブッダは沙羅の2本の木の下で涅槃に入った。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす」で人口に膾炙しているが、インドで言う沙羅は、日本のナツツバキとは別物であるという。その辺の詮索は、学者に任せておけばいいが、ブッダの最期は、大涅槃経に次のように書かれていて、ナツツバキがぴったりするのもまた事実なのだ。この花は、書かれている通り、咲き乱れ、降り注ぐ。

 

ブッダはクシナーラーの地で歩みを止めた。
そして2本のサーラ樹(沙羅双樹)のあいだに設けられた寝台の上に横になり、頭を北に向け、右脇を下につけて、両足を重ね、心を正しくとどめた。
「私はもう疲れた。私は横になりたい」
そうブッダは呟いた。

するとその時、沙羅双樹の花が一斉に咲き誇り、ブッダを供養するかのごとく降り注いだ。
「アーナンダよ。不思議なことに沙羅双樹が咲き乱れ、降り注いでいる。

 

ずいぶん昔に、中村元ブッダ最後の旅」を岩波でよんだ記憶がある。探したが見つからないので、ネットで調べると、素晴らしい日本語訳が沢山アップされている。便利になったものだ。上記および下記のものは 「禅の視点 life」というウェブからお借りした。大変分かりやすくしかも品がある訳で、有難かった。

 

大涅槃経は、まるで小説のようにリアルに描かれているので、私のような生命肯定的な無神論者にとっても、ブッダの言葉が、胸の奥を打つように響いてくるものがある。今回、沙羅の記述を確認しようとして、全部読んでしまった。

以下、自分への備忘として掲載しておく。情けないことに、最近は感動してもすぐに忘れてしまうのだ。

 

「スバッダよ。
人はみな、本当に正しいことは何かと問い続けて生きるべきなのだ。

 

「よいか修行僧たちよ。今こそ、そなたたちに最後の教えを告げよう。
あらゆる存在は過ぎ去っていく。怠ることなく修行に励みなさい」
これが50年にわたり修行を続けてきたブッダが弟子たちに残した最後の言葉となった。

 

こんな最期の言葉は、老いてなお生き続ける自分への𠮟咤ともエールとも聞こえてくる。

 

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若冲の「蔬菜涅槃図」:大根が涅槃に入っている。正に奇想。