ポポイ・・・または変なオペラ

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友人に誘われ「ポポイ」という変わったオペラを観た。本邦2度目の公演というレアな舞台で、会場は静岡のAOIホールである。
原作は倉橋由美子の同名の小説で、台本・作曲は間宮芳生、演出は宮城聰。指揮は寺嶋陸也で3月に彼の作曲になる「「無一物の生」-聲明と能の謡と舞いによる」を観たばかりだ。
元首相のところに若いテロリスト2人が押し入り、何かを要求したが拒否され彼らはその場で切腹し自決。だがこの首が秘密裏に生命維持装置により生かされ、その生首を元首相の孫娘、舞が預かり飼育する。舞はこれを「ポポイ」と名づける。やがてしだいのこの首とコミュニケーションが取れるようになり、舞は不思議な親しみを感じ始める。だが首は急速に老化してゆき、舞は生命維持装置をはずす決心をする・・・というようなストーリーだ。時事や倫理が微妙にからむ。
以下、オペラなどほとんど見ないし、間宮音楽を聴いたこともない素人の感想を恥ずかしげもなく。
お話は当然三島由紀夫事件やサロメ、ISを想起させ、それをベースに想像を促してくる。舞台はコンサート用で狭いので、前部に10人ほどの楽団「東京シンフォニエッタ」、その背後に作業現場の足場のようなスチールのステージが一段高くしつらえられ、舞台はそこで進行する。生首はカウンターテナー脳梗塞で寝たままの元首相は能楽師の謡というのもユニークだ。が、西洋音楽と謡が違和感を感じさせない。これはまた不思議なことである。このオペラの中で歌は、抑揚の少ないメロディーのない語りのようである。日本語のオペラなどで、まったく言葉として聞こえてこなかったり、なにか小学校の劇のようで??と思ったりする場面を経験するが、この点では間宮氏は独自の方法論を持っているのだろうと思われる。(間宮氏のほかのオペラをまったく知らないのだが)。西洋音楽と謡が違和感がない、というより、逆に全体の形式が能の謡の形式をとり込んでいるのではないか。歌もそう、キャストの動きもしかり。そういえば演出の宮城氏は静岡舞台芸術センターSPACの総監督で、かの鈴木忠志氏の後釜である。
ほとんど出ずっぱりの舞は、ソプラノの吉川真澄でとてもよかったし、他のキャストも実力者。東京シンフォニエッタも隙のない演奏を聞かせてくれた。生首が歌うなどきわどいドキドキ感もあった。


じゃあ満足だったかといえば、さてどうだろう。一つは筋書きがわからないために、歌詞を理解する必要があるが、聞きとるのがやっと。字幕がほしいほどなので、とても楽しむまで及ばないこと。一つはこういう知に訴えるテーマは、あえて舞台音楽化する必要があるのか、ということ。そしてもう一つは座席が硬くて尻が痛かったこと。会館の考えはそれなりあるのだろうけれど、オペラなど年に一度も公演されないような地方にとっては、いささか荷の重すぎる代物だったのではないだろうか。

以上、びっくりした素人感想の一端をメモ。