稀勢の里 引退

初場所や逸(はや)る若手のぶちかまし
 
イメージ 1
(ネットの報道写真を借用)

 
稀勢の里が引退した。
「相撲人生に一片の悔いもない」と語ったが、実のところはどうか。
私も肩を痛めて右腕の持ち上げる力が半分も入らない経験をしたが、おそらく彼はそんな状態で土俵に上がっていたのだろう。今場所は初日に負けてから、私は見ていられなくて取り組みになるとテレビの前を離れた。稀勢の里の心情を察すると自分の心臓も高鳴ってしまうから。
大関時代になかなか優勝できない時代、土俵下で盛んに目をしばたいたり、何か念じているのか口元に笑みを浮かべてりして精神集中していた表情をまざまざと思いだす。
善かれ悪しかれ気をもませるお相撲さんであった。

で、
引退されたら、ほっとした。ご苦労さんでした、と思わずつぶやいてしまった。私も肩がすっと楽になってまたテレビを楽しめるようになった。

こんな逆説的な歌がふとうかんでくる。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
 
さて、
大相撲は、日本酒を飲みながらテレビ観戦するにもってこいのスポーツだと思う。
勝負は一瞬だから、要はその時だけ目をやればいい。長い仕切りの儀式は、徐々に盛り上がっていく爆発までの導火線であり、それはまた興奮への参道となるが、見過ごしたとしても本番の興が損なわれるものではない。
 
呼び出しから始まって儀式は進み、いわば規則正しいリズムが刻まれていて、それに乗って興ずることができる。酒もそのリズムで飲めるのである。
ところがサッカーやテニスとなると、一瞬たりとも眼が離せない。
酒はこぼすや間違えて湯を呑むや、実に日本酒とは相性が悪いスポーツなのである。
このあたり、相撲が神に奉納される神事であって、もともと儀式のリズムをもっていたと考えてみるが、いかがか。