豊橋の鬼祭り(番外:一の宮へ)

春の鬼暴れ疲れて俯きたり
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天狗と争う赤鬼
 
春めく陽射しに誘われて、少し遠出のドライブをかねて、豊橋の安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)の鬼祭りを見に行った。神楽・田楽などに古い形が遺されており、国指定の無形文化財である。例年210日と11日に行われているが、かつては旧暦の大晦日から元日にかけて催行された年越しの祭りであったという。
特に11日午後の「鬼と天狗のからかい」という田楽演目が人気で、大変な人出がある。昔々暴れん坊の鬼が農作物や貯蔵穀物をまきちらすなど悪戯をするので、見かねた武人(天狗)がそれと争い、追い払い鬼も改心するという内容の田楽であり、古くから伝えられてきたものである。
鬼と天狗の所作の面白さはもちろんだが、タンきり飴を盛大にまき、また一緒に小麦粉も振り撒くため、近くの見物客は髪から服から真っ白けになってしまう。この粉を被ると夏病みしないといわれ、みなキャーキャー嬌声をあげながら楽しんでいる。私も粉を避けながら飴を奪い合い、なんとか一袋キャッチできて思わず顔がほころんだ。
 
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小麦粉の白煙が上がる
華やかな場面だけがマスコミにも登場するのだが、実際はその準備は大変だし、鬼や天狗は水垢離して潔斎する厳しい掟を守らなければならない。鬼や天狗は境内での演目だけでなく、町内を夜遅くまで回って福を授ける。それは一見の観客になかなか見えない部分である。私も4時間ほど立ち続けたら腰が痛んできて、「からかい」を見たあと神社を後にした。とても祭りの総体を見納めることは出来ない。
 
境内は見物客がごった返していて、残念なことに「からかい」などの参道で行われる演目は背の高い大人でもよく見えない。ましてや子どもには皆目見えないだろう。拝殿前の舞台は八角台といい、そこでの演目はみなが何とか見ることができる。これだけ人出が増えると何か工夫が必要に思われる。
くわえて警察の警備が「ごていねい」過ぎて、四六時中「迷子にならないよう!、ゆっくり前に進んで!」と放送しているものだから、祭りの神がかった雰囲気をこわしている。「からかい」などは音曲がないので、警察の放送がバック音楽になりまるで大道芸になりさがってしまっている。これも一考してもよさそうだ。
ともあれ祭りの人ごみの中で、ろくに見えないにも拘らず
「これが終わると春になるんだよ」というおばさんの顔も昂揚していた。境内のウメももう満開だった。三河の春も直ぐそこだ。
 
昨年から、遠山郷霜月祭り、東栄町花祭り遠州のひよんどりなどの山の中の古い祭りを何ヶ所か見て回った。その幾つかは徹夜の祭りだった。そしていずれも鬼が重要な役を果たしていた。もともと鬼は夜出没するものだが、ここでは真昼に醜怪な姿を現わすこと自体、祭りが神威への畏れを離れて演劇的性格が強くなっているとおもわれる。それだけ鬼の恐ろしさが戯画化されている。
「からかい」での赤鬼の歩き方をみても、ほかの祭りに見られる反閇(へんばい)という地面を踏んで霊力を起こす特有の歩き方を、一段と戯画化したもののように、私には思える。おそらく豊橋などの街道筋では、山中の閉ざされた部落とは異なり、鬼への恐怖はリアルではなかったのだろう。
鬼と天狗という代表的な妖怪を主役にした演劇性の強い祭りであり、霊妙な雰囲気は全くないが、楽しめる庶民の春祭りという印象だった。
 
 
つけくわえると、
この祭りの天狗が鬼を鎮める構成は、
遠州の「寺野のひよんどり」では、まねきと呼ばれる男性が3匹の鬼を鎮め、「川名のひよんどり」では山男が獅子を鎮めるものと同じである。特に川名の山男は、いかつい面相であり、これも妖怪に近い存在にみえる。
豊橋の祭りの天狗は、もともとは寺野や川名のような山人であったのではないだろうか。天狗はその姿や、また高天原の大神の使いで武人あるような設定は、
いかにも後世の付会に見える。お神楽と田楽とが交じり合っている気がするが、もともとは寺野や川名のような、山の神を鎮めて豊作を願う祭りがベースにあったように、私には見えてくる。

(参考) 遠州のひよんどり http://book.geocities.jp/geru_shi_m/hiyonndori.htm 
遠山の霜月祭り http://book.geocities.jp/geru_shi_m/simotukimaturi.htm