日向の七草祭り(シリーズ一の宮へ)

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舞い役の舞
静岡の町から藁科川に沿って約30キロをさかのぼり、南アルプスに連なる山あいに日向という集落がある。旧暦1月7日(平成27年は2月25日)に、ここの福田寺に田遊び祭りがあるので、今年初めて伺った。

祭りは午前中に「日の出の祈祷」があるが、私は夜の部を見ようと出かけ、境内に入ったのは夕方5時少し前。福田寺は寺といっても、お堂しかないので観音堂と呼ばれている。堂の軒には大きな赤い提灯がいくつも下げられ、堂の前には舞い殿がしつらえられている。境内ぐるりは紅白の幔幕で囲われ、焚き火も燃えていて、土地の古老は既に酔ってぼそぼそと話をしている。七草粥の振舞いや、蕎麦や甘酒、立派なドンコが安価で並んでいて、夜部の開始を待つには退屈しない。

酔ったおじさんの話では、
「現在戸数75、昔は120あったけど。減ってしまって祭りも難しくなる。今年は小学校に入る子もなくてね」と、悲観声ばかり。私も慰めようもない。ああ地方創生。

夕暮山(実名)もとっぷりと暮れて、半月が真上にかかるころ、単調な笛の音と太鼓の響きも力なく、祭りが始まった。だが威勢のよい花火が上がって驚いた。
はじめは、「歳徳祝」という演目で、舞い役の男衆6人が長い笹竹を中心に交替に回るという単調なもの。柱を回るというのはイザナミイザナギ神話を思い浮かべる。
その後に「駒んず」。これは12人の舞い役が笹竹をもって円陣を組み、立てた竹をゆすって上部を触れ合わせたりしてリズムを取って歌う、その中に雉、馬の冠を被った少年たちが入り込み、3回廻って出てくるというもの。解説では「養蚕の繁栄を祈願するもので山鳥の羽は蚕の掃き立てに用いるものとされ、馬は、蚕を馬の化身だとする伝説にちなんだものと考えられる」としている。これが稲作よりも養蚕が重要であった山村生活を反映していて、特徴的なものなのだそうだ。
だが、舞い役の陰になって雉も馬も、ほとんど見えない!
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鳥の冠をかぶった少年
次に面白いのは、「浜行き」「若魚」で、ひょっとこ面の道化である。30キロ下流の海から汲んできた塩水と、魚や野菜をよれよれになって運んできて、舞い役たちに配り、さらに境内に集まった人びとの中に分け入って、塩水を掛ける。みな一斉にどよめき、境内に笑いが巻き起こる。
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道化「若魚」が供物を担いで登場:境内は盛り上がる

で次は、というべきだが、不思議なことに、ここからまた、演目ははじめに戻ってしまう。また退屈な「歳徳祝」が始まる。
会場で伺うと、
「これまでは練習といってます。「浜行き」が塩水で境内を清めたので、これからが本番。」なのだという。

本番の最後には、「数え文」の奉唱。これは舞台上に太鼓を立て、その周りに舞い役が座り、主掌という役が、「数え文」読本を前にしてそれを読む、というもので、芸能としては全くおもしろくない。これは一途に読み手の力量にかかるものだが、勝手な期待をしているとは思うが、失礼ながら鄙びた風もなく、聞かせる迫力もなかった。

長々と祭りの流れを追ってしまったが、田遊びは基本的には稲の豊作を祈るというものであり、「おそらく数百年の昔に専門の芸能者によって伝えられたものが、村人の間で連綿と受け継がれてきのである。」その間に、山間生活を映した「駒んず」などが加えられ独自の形式となったのだろう。

駿州日向田遊び詞章、という万延本が、上記の読本になっている。この中に、<肥草取り>という章があり、私がいま唸っている、宮崎は椎葉の「刈干切唄」似合い通じるところがあるので、長いが参考に転記しておく。(♪駒よ いぬるぞ まぐさ負え)

このみ内(に)候ふ徳太郎がていていこそ 福太郎がていこそ いつよりもことしハ ものよけにも候 うれしけにも候 月(の)わのかまをは こしの元についさして おふ馬たらにもくらをいて こふまたらにもくらおいて これより西ハ とみや川さしおふけ とりきり草ハ何々に こがねのこ草に白かねのにわとく あかゝねのいたとり
のべいゆるるふじ草 かいもとにとりてハ とく草ふく草と 千そく万そくおつとりよ 
おうまたらにもつけたりと こうまたらにもつけたりと 千ちやうか万ちやうかなかのつほのよきとこゑ てんしろとおろいて 悪水をこほいて福水をたゝいて せんちやうか万ちやうか なかつほのよきとこへやりかけた 
 (参考:「七草祭」 静岡市日向町内会発行)


なお、数え文の奉唱のさい、翁面が飾られるという。これはこの祭りとともにこの地に伝来したといわれている。(また別に「白髭の翁」の面もあり誰も見ることができないものだという。)先に、豊橋の鬼祭りを見に行ったが、鬼を追い出した天狗が最後に舞を納めるが、そのさいには獣のような面(よく見えない)に向かって舞っていた。それらは何なのか?
当て推量でいえば、それらは田や山の幸をもたらす神々と、村人を媒介するものではないか。それらは田や山の神に代わって村人の祈りを聞き、神に伝えるいわば巫覡(ふげき)ではないだろうか。そしておそらく、神は姿も見せずに、この夜に来てこの夜に去っていってしまう。