一の宮参拝 筥崎宮・住吉神社(筑前国:福岡県)

筑前国一の宮は、諸説あるが大方の説に倣って筥崎宮住吉神社を参拝した。
 
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筥崎宮(はこざきぐう)へは、鹿児島本線箱崎の駅から歩いて10分ほどだった。(地名は神社を憚って漢字を変えている。)真横から境内に入ると、楼門から中へは一般人は入れず、参拝も楼門で行うことになった。思いかえしてみれば、楼門から中に入れないのは、橿原神宮がそうだったし、和歌山県の丹生都比売神社もそうだと聞くが、これには理由があるのだろう。
さて楼門は、雄大な屋根を張り出し威圧感のある建物で国重文である。掲げられた扁額には「敵国降伏」と書かれていて、他の神社にはない緊張感をさそう。敵国とは、もちろん元寇のことである。
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文永の役(1274年)のおり博多は甚大な被害を受け筥崎宮も炎上したといわれる。この額は、元寇に備えて醍醐天皇の宸筆を亀山上皇が奉納した文字だといわれており、神社の由緒書きによれば、「楼門高く掲げられている額の文字は、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したもの」だという。
文永の役後、幕府は再度の元寇に備えて防備を固め、神社も寺も挙って「敵国降伏」を神仏に祈願した。そして戦後、御家人だけでなく社寺もまたその「功績」に対する恩賞を幕府に求めた。寺社の慾も常人と同じである。
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さて、参道は楼門から4,500mまっすぐに浜まで伸びていて、社はいかにも海に向かって威厳を放つような構えとなっている。一の鳥居は、1609年に黒田長政が奉納したもので国重文(この社は本殿近くから順に、一の鳥居、二の鳥居と呼ぶそうだ)。また応神天皇の胞衣(えな)を箱に入れて納めた印の松が「筥松」とよばれ楼門のそばに葉を茂らせている。興味を引くのは参道わきに置かれた「碇石」で、元寇の船のイカリの重石として使われていたものであり、博多港の海底から引き上げられたもの。石材は蒙古軍の造船地であった朝鮮南部だろうという。800年ほど前のことだが、生々しい。
元寇防塁と碇石については、別項参照。 

今次大戦で沖縄は戦場となり多くの人が犠牲になった。その記憶は沖縄を語るときに忘れられない。と同様に、おそらく博多では元寇の記憶がながらく住民の間で語り継がれたのだろう。博多には「ムクリ、コッリが来るぞ」という脅し文句があるそうで、蒙古、高麗から転じたらしい。しかし今は無骨な石に語らせるほかない。
 
さて、祭神は八幡宮であるから応神天皇であり、あわせて神功皇后玉依姫命が祀られている。八幡宮については九州北部一円がこの神一色なので、ここで語ることもないだろうが、応神天皇のエナを埋めたなど、他所より生々しい物語に彩られ、宇佐神宮鹿児島神宮のようなルーツの深さを感じさせる。宇佐、石清水とならんで三大八幡宮といわれている。(筥崎でなく鶴岡(鎌倉)をいれるという説もある)。

この社の創建は921年だが、もともと内陸の筑前穂波郡(現飯塚市)にあった大分宮から923年に移転したもので、その大分宮は神功皇后応神天皇がしばしば留まったところに726年に創建されたものという。1185年には石清水八幡宮の別院になっている。
箱崎は中世には大陸貿易の根拠地として国際都市を形成していた」ようで、この神社の移転は、「石清水八幡宮箱崎という拠点を占めて、信仰と貿易の振興を図った」ものだろうとしている。(折居正勝「筥崎宮」『日本の神々1』)
この神社は相当に商魂も逞しかったようで、「筥崎宮は創建以来、大宰府の庇護を背景に対外貿易を行った。対外貿易を経済的基盤の要に位置づけた平氏も、筥崎宮を主柱とした」(武田要子「博多」岩波新書)。
さらに「二回に及ぶ蒙古襲来で、日元貿易は途絶したに違いないと想像される方が多いだろう。あにはからんや、貿易は続いていた」というその証拠遺物が、沈没船から発見されていると説明している。このあたりにもいかにも国際商業都市のもつしたたかな複雑さが感じられはしないか。


住吉神社
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ついで住吉神社に参拝した。
博多駅から歩いて15分ほどの街中である。ただしこの地も昔は海浜に接していたようだ。表参道と那珂川との間に、道路をはさんで天竜池があり、小さな噴水が上がっていた。そこは満潮時には潮が来ていた場所の名残である。境内に書かれていた古地図では、入り江に突き出た岬にこの神社が描かれている。摂津(大阪)の住吉神社も、かつては海岸で松林に囲まれていたといい、同様な環境とだった思われる。
 
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住吉は神社の中でも古い歴史を持つ一つである。
ご祭神は底筒男神、中筒男神、表筒男神であり、相殿にアマテラスと神功皇后を配している。筒男の3神は、イザナギが黄泉の国から帰り阿波伎原で禊をしたときに出現した神であり、神功皇后の朝鮮出征の際先導を果たした海の民の奉祀する神である。記紀では神功皇后はこの神を摂津、長門に祀ったとされている。しかし記紀やそのほかの記録に博多の地に住吉神を祀ったとは書かれていない。だが境内からは弥生末期の銅矛、銅戈が出土しており古くからの聖地であったのは間違いなさそうだ。海の民が大陸から渡ってきて、この浜に居つき、氏神としてまた航海や船舶の守護神として岬の先端に祀ったのであろう。海の民はそこから遠い故郷を望見しようとしたのかもしれない。
 
境内は大都市の真中にあるため、そう森閑としているわけではない。参道は脇に一列ほどの大木の列が並ぶ程度であるが、裏手はエビス神社なども配していて広い森になっている。楼門、拝殿、回廊は美しい朱塗りであり、その鮮やかさは修理してさほど時間が経っていなように思われた。本殿は住吉づくりで国の重文だが、回廊が隠してほとんど見ることができない。ただし摂津のような4棟や、長門のような屋根が連続しているものではなく、一棟である。
また境内には大きな相撲取りの像が立っていて異様に思うが、これは戦前までは新横綱は必ず参拝された歴史があるのだという。
 
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江南や南洋から渡ってきた海の民は、倭人となり、やがて日本の国民となるのだが、その後何度も先祖の地の人たちと刃を交える歴史を経験することとなる。
古い寺社という存在は、そんな達観した視点を与えてくれるよすがにもなる。