元寇防塁と碇石・・・元寇の痕跡

蒙古船底に眠らせ冬の湾
イメージ 2元寇防塁)


元寇の遺跡である「元寇防塁」と「碇石」をみにいった。

元寇防塁は、福岡市今津から香椎までの海岸線に約20kmの間を、高さ2m2mの石の塀を築いたもので、大半は破損したり埋没しているという。幕府は九州の御家人や荘園などにも分担させて、この巨大な公共事業を実施した。

私は博多駅から一番近い、早良区西新の西南学院大学の脇に石垣を見てきた。バス停の名が防塁前だったし、緑地帯の中に保存されていて近くには元寇神社もあり保存状態は良好。実際に見えるのは地上部1m程度なのであまり迫力はないが、海側が切り立っていて、これがため蒙古・高麗軍はまったく上陸できなかったという。


さて、

文永の役127411月)弘安の役12816月~8月)では、日本は蒙古・高麗軍に歯が立たず九州北部は破壊略奪されたが、神風が吹いて元軍は壊滅し退散、日本は勝利した。日本は神国だと戦前は教えられ。

私、戦後世代も神国とは言わぬまでも、奇跡的に台風が元の軍を壊滅させたと教わってきた。だがこの歴史認識は少し変わってきているようだ。知識も資料もないので説明する自信がないが、自分の頭の整理のために記しておく。


先日の「水城」のブログで、文永の役では

「元・高麗軍は鳴動を合図に統制の取れた集団戦法・・・おまけに毒矢や鉄砲という新兵器に日本側は応戦ができず、水城まで撤退し、博多の町は大きな被害を受けた」(「博多」武野要子著 岩波新書


と引用したが、このもともとの史料は「八幡愚童訓」(はちまんぐどうくん)というおよそ1300年ごろに成立した、八幡神の神威を宣伝した文書のようだ。この史料では、上記のごとく手も足も出ないような書きぶりだが、それは神風や八幡神の活躍をことさら強調するための脚色であり、事実は、日本軍は相当に応戦したため元軍が船まで撤退し、本国への退却を議論をしていたところに、強風が襲ったということらしい。

弘安の役では兵15万人、軍船4400艘というとてつもない兵力を投入してきたが、日本軍は相当の準備をして激しく対抗したため蒙古軍は博多に上陸できず、江南からの軍は鷹島に布陣したところ今度は本当に台風が襲来、船団は大被害を受けて鷹島には10万人の元軍が残され、ことごとく日本兵に成敗されたという。

以上、ウィキペディアの知識なのでこれ以上の記載はやめておくが、教科書で教わったこととはだいぶ違っている。



イメージ 1(碇石)


ついで、「碇石」を筥崎宮の境内に尋ねた。加工された長い石材で、かなりな重さがありそうだ。

この碇石は博多港中央波止場付近から引き上げられた6本中の1本であり、石質は赭色凝灰岩で、この石は蒙古軍の船を造船した朝鮮全羅南道長與南方の天冠山にみられる、という案内板が出ている。その場所は私には地図で確認できなかった。碇石は、爪をつけた木製の碇に重石として装着したもので、国立博物館に碇の展示があるのでそれをみると判りやすいだろう。700年の時をこえて博多の港から掘り出されたこんな石が、10万人以上の死者を出した元寇を撃退したメモリアルであり、大陸に面している九州北部ならではの戦禍の記憶である。