名句に教わる-3 虚子(鎌倉を驚かしたる余寒あり)

寒戻るだからいわんこっちゃない
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高浜虚子に次の句がある。

鎌倉を驚かしたる余寒あり大正3年:虚子40歳)
 
当時虚子は実際に鎌倉に住んでいた。
だから実際にびっくりするような余寒が鎌倉を見舞ったのかもしれない。とすると一見、この句は事実そのままをまるで技巧のない17文字で表現しただけのように思える。が、日本人がこの句を読むと、そこに古い物語の一場面のような不思議なイメージが現出するから、不思議である。

それは源平の合戦であったり、義経であったり、奥州藤原氏であったり、元寇の大事件であったり、後醍醐天皇であったり、なにか絵巻の一場面のようである。

これはひとえに「鎌倉」の地の歴史がつむぎだす物語がその背後にあるからであり、読み手は「鎌倉市」から「鎌倉時代・幕府」を、そして「驚かせる」のは、寒さはもちろん極めて大きな政治的異変を連想してしまうのである。

しかし、作者の虚子は、句以上のことはなんにも語っていない。

蕪村の
鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな
などと共通するものがある。

これは、俳句という形式のマジックなのだろう。
というより、あえて大げさに言えば、作者は言葉のもつイメージの組み合わせを頼んで、読者を煙に巻いて、内容については無責任にほおかぶりしている。
句の力には感心するが、これでいいのだろうかという釈然としないものが心の隅に残らざるをえない。

明治45年虚子は、俳句の雑詠の撰を始めるにあたって次の3点を挙げたという。
1 調子の平明なること
2 なるべく や かな等切字あること
3 言葉簡にして余意多き事 
 
この「余意多きこと」が曲者である。場合によると、余意のほうが多すぎるほど多いのである。

なお、大正3年刊の「俳句のつくりよう」では、「じっと眺め入ること」、「じっと案じ入ること」を提要にあげている。また付録の「俳諧談」には、「背景のある俳句」という言葉を掲げ、そのモデルとして芭蕉を挙げている。
そして「人生を愚にせず、人生に対して相当の熱意を持っておりながら、その半面に超越した世界に遊ぶごとき考えで俳句をつくっている」人の句には仏像の光背のようにしっとりと底の方から味が滲み出してくるごとく感ずるものがあるといい、そうした句を理想としてあげている。
また、芭蕉などには月並みな、平凡人の小主観ではなく深い厚い主観、斬新な主観があると説いている。

・・・私にとっては、半分くらいは判るような、いやほとんどわからぬような。
私の駄句をみれば、およそ余意などかけらも見あたらない。