春の川は、堰をきって流れキラキラして、まるで水の角が取れたような躍動感がある。みているだけで命の喜びを感じ、ついつい時間を忘れてしまう。
さて、たまにはプロの俳句を。
橋に立てば春水我に向かって来(昭和13年:虚子64歳)
春の水の勢い、雪解け水かもしれない、塞き止められていた水が田畑に流れてくるのかもしれない、昨日より一層強まった光の中で、みなもをきらきら光らせながら、漲る力を抑え切れない如くに溢れてくる。私はそれを見ながら、それを受け止めている。
明るい、生命力あふれて自信に満ちた句におもえる。
私は誓子の次の句を思い出す。
「うしろより見る春水の去りゆくを」(昭和21年作:「晩刻」:誓子45歳)
「春水と行くを止むれば流れ去る」(昭和18年作)
誓子は春水の後姿が見えたのだ、という。それらは流れ去りゆくものだった。誓子の研ぎすまされた感覚を感じる。
虚子の句とならべてみると、叙情の質の大きな違いに改めて驚き、俳人としての資質の差、時代の差を感じざるをえない。
虚子は誓子より一時代前に生きていた。伝統的な虚子の句の美は、変化する時代の中で、まるで化石のように旧いままだが、実に生きて活動する逞しく美しい化石であった、とでも形容するべきなのか。
春の水流れゝて又ここに (昭和7年:虚子58歳)
虚子の春の水は、流れ去ってもまたここに戻ってくる。大きく循環する宇宙の中にある、今この水、なのであり、彼の心の底深くには輪廻転生ともいうべき世界への不動の信頼があるようにみえてくる。誓子には見られないものである。