金印のロマン

一筋の道凍て遠き志賀島  
 
イメージ 1市博物館パンフレット
 
教科書でおなじみの「金印」を、その実物を拝もうと、開館と同時に福岡市博物館にはいった。真っ先にケースを覗き込むと・・・、
やっぱり意外に小さい。しかし妖しいしっとりしたような黄金の輝きだ。傍に実際の重さを再現したレプリカが置かれるので、持ってみると・・・、意外に重い!一辺が2.3cm、重さ108gだという。正面に回ってみると、蛇が大きく顔を上げて振り向くようにしている姿がわかる。蛇には鱗ではなく丸いマーク(魚子紋)がユニークだ。
 
また博物館の解説によれば、この金印は、現在の印鑑とは違って、そのころ中国でおこなわれていたように、重要物品を入れた容器や公的文書である木簡や竹簡を束にして「封泥」といって粘土で封緘し、その粘土に押印したのだと説明されていた。それにも驚いたが、これについてはいまだ諸説あるようだ。
なんでも実物を見てみるものである。
 
この黄金の印は、「漢委奴国王」とかかれ「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」とする読み、奴ノ国とは、今の那珂川を中心とする福岡地方であるとの説が一般的である。
中国の後漢書東夷伝・倭には次のように書かれている。
建武中元二年、倭奴國、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と稱す。倭國の極南界なり。光武、賜うに印綬を以ってす。」(岩波文庫
西暦で57年のことである。中華思想というのは国境の概念が希薄で、周辺国は中華皇帝の下に教化され皇帝に恭順を示すべきだと考えている。これにはいろいろ問題があるとしても、当時の中国はぬきんでた国であったことは否定できない。この金印をみせられた人は目がくらんで「参った」と思ったのだろう。後に仏像が伝わった折にも、その金色の輝きが日本人?を大いに驚かせ敬わせたようだ。
 
文中の「印綬」というのは、印は印章、綬はそれを下げるためのヒモのことらしい。博物館にはその絵があって、布のような「綬」が描かれていた。「綬」には様々な色があり、印の材質と綬の色のくみあわせでその身分を表した。ちなみに「漢委奴国王」印は、金印紫綬だったという。金より上は玉である。 なるほど!
 
イメージ 2金印公園

博物館を出て志賀島へ、もちろん、金印の発掘された場所に向かう。志賀島はかつて島であったが昭和6年に橋が作られてからその根元に砂がたまり今では陸続きとなっている。このあたりの砂は淡い黄色をしていて、とてもきれいである。
私にはドライブしてみたいと思っていた道が二箇所あった、野付半島とこの海の中道である。ここは砂浜はきれいだが道路からの景色は残念ながら野付には及ばなかった。
イメージ 3志賀島砂州が続く

江戸時代に志賀島で一農民が金印を発見し、その付近は現在、金印公園になっている。金印がなぜこんな所から出土したのかは、いまだ謎のままである。
やはり福岡県内にある宗像神社が大島と沖ノ島を神域としているが、志賀島も同様に海人たちの神聖な場所であったと考えられそうだ。島には志賀海神社(しかうみじんじゃ)があり、全国の綿津見神社、海神社の総本社である(今回は参拝しなかった)。綿津見は住吉や宗像と同じ海の民の神だが、祀ったのは安曇族だといわれている。だが、「志賀の海人の信奉する神威の領域は、志賀島海の中道、あるいはその根もとの阿曇郷にかけてであったことが推定できる」(*1)と谷川健一氏は書いていて、それでは奴の国とは重ならず、奴の国とはストレートには繋がらないようだ。だがいずれにせよこの島が重要な航海ルート上にあり、神聖な場所であったろうことは想像できる。奴の国王から誰の手を経て、いったい何時誰が何故ここに埋めたのか、興味ある謎ではある。
 


(*1)「志賀海神社」 谷川健一 『日本の神々1 九州』