水城…古代の中韓との戦の跡(1)

訪ね来て筑紫古代や梅つぼみ
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水城の址 道路により寸断されているが、左奥の山裾まで延長している

筑紫の国とか博多福岡というと、否応なしに大陸・朝鮮半島を意識する。博多では隣の席の普通の女の子が韓国語で話をしている。テレビでもpm2.5の予報が流される。太宰府天満宮はまるで外国だ。こんなアジアの国際都市という匂いをもつ、それはそのはずで福岡釜山は直線で約200kmと広島と同じで、鹿児島よりも近いのだ。
 
527年におこった筑紫の君磐井の乱は、当時の朝鮮半島の政情を反映した国際的な側面を持っていた。ヤマト政権は百済を支援したのに対し磐井は新羅と手を組んだため、ヤマトは磐井を征討した。その後の歴史は新羅が朝鮮を統一したことから、情勢判断はヤマトよりも磐井が的確だったという声もあがる。このように筑紫は大陸の情勢に敏感で、関東の島国意識とはなにか意識が違うように思える。
663年に白村江の戦いで唐、新羅に壊滅的敗北を喫した天智天皇は、都を近江に遷すとともに、九州の防衛を固めた。壱岐対馬・筑紫に防人を配備し、のろし台を置き、さらに、博多駅近くにあったといわれる那津官家というヤマト政権の軍事基地を大宰府に緊急移転したという。
そして664年、大宰府の手前の狭隘部に大きな堤防を作り、その前面に堀を掘り水を蓄えた。これが水城(みずき)である。
 
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水城の造成工事:国立博物館ジオラマ

この水城を見学に行った。鹿児島本線の水城駅は、博多から約10キロ南で、駅をおりるとすぐ100m先に水城がみえた。JRや道路のため、その一部が取り壊されていて、その突端部に石碑が建てられていた。資料によれば長さ約1.2km、基底部の幅約80m、高さ約8m、堀は幅60m、深さ5mという大規模なものだったという。さらに堤を見下ろす両側の山には大野城、基肄(きい)城が造られている。困難な土木工事を急ピッチで進めたのだと思われ、軟弱な地盤を補強するために敷粗朶とよばれる樹木を敷き詰めていることが確認され、これは百済の起源とされる古代の土木技術だという。(九州国立博物館資料
 
この距離まで後退して防備しようとしたのか、と思うと外的に対するおびえにも似た危機感が感じられる。幸いにしてその後、唐や新羅の侵攻はなかった。しかし元寇文永の役では、「元・高麗軍は鳴動を合図に統制の取れた集団戦法・・・おまけに毒矢や鉄砲という新兵器に日本側は応戦ができず、水城まで撤退し、博多の町は大きな被害を受けた」(「博多」武野要子著 岩波新書)、とする史料もある。600年後にすこしは役に立った、ということか。
現場に立つと水城はこんもりした林となって平地を突っ切り、さらにそれを道路や鉄道が寸断しているのが眺められる。平和な風景であるが、この堤防の異常な大きさを考えると、当時の緊迫感が幾分わかるように思える。