能「羽衣」の説話

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清水の三保の松原を舞台に「三保羽衣薪能」が毎年ひらかれていて、今年は第33回となる。友人の誘いで出かけたが、あいにくの雨で能はホールでの開催になった。本来なら三保の伝説の「羽衣の松」を背景にして富士の峰を遥かにのぞみつつ、天女の舞がみられる稀有の舞台設定となるはずなのだが本当に残念だった。
 
能「羽衣」のストーリーは淡白だ。白龍という漁師が松の枝にかかる天の羽衣を手に入れ持ち帰ろうとすると、天女が現れ衣を返してくれと懇願するが、白龍は返さない。天女が困り果てた姿を見て白龍はさすがに衣を返えそうと思い、その前に天人の舞を見せろと注文をつける。天女はまずは衣を返して欲しいというが、白龍は衣を返したら舞わずに帰ってしまうだろうと疑うと、

「いや、疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」と天女にいわれ、
「あら恥ずかしや さらばとて」衣を返し、天女は約束どおり舞を披露しやがて霞に消えてしまう。ここのやや道徳的なやり取りが唯一で、ほかにドラマはなくメインは天女の舞である。この舞は、駿河舞という田舎の舞が宮廷に取り込まれ洗練されたものだと言われているが、悲しいかな素人の私にはその舞は美しいのだが面白さが分らない。
 
いわゆる羽衣伝説は日本や中国各地に伝わっているだけでなく、世界的に分布している「白鳥処女説話」に分類されるものの一形態といわれている。白鳥に姿を変えた乙女が水辺に降り立ちその羽を奪われて地上の男の妻となるという説話である。

アジア的展開の視点で見たときに、三保の羽衣は次の3つの特徴があると、君島久子氏は指摘している。(「東洋の天女と三保の羽衣」『羽衣・竹取の説話』静岡新聞社
それは「舞を舞う天女」、「海辺に浴する天女」、「未婚の天女」の3点だという。
意外に思うが、天女が舞う例はほとんど見られない、また天女がくるのは山の湖、泉や池、川であり海に浴するのは極めて珍しい、また天女は多くは幸せな結婚をし、三保の天女やかぐや姫のように帝まで振り切ったり、舞を舞っただけで飛んでいってしまう例もない、と指摘する。こう指摘されると確かに眼から鱗の思いがする。
 
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(「仏説長阿含経巻五」 平山郁夫  :これは飛天というのかな?)
たしかに日本の天羽衣伝説にも様々な形態があり、生々しいものがある。
風土記逸文の近江にある琵琶湖の北の余呉湖に伝わるものは、イカトミという男が天女の衣を盗み取って隠し、天女は仕方なく嫁となって2男2女を儲けるが、やがて衣を見つけ天に帰っている。
同じく丹後の逸文では、虚実が生々しい。内容を整理すると、子供のいない老夫婦が天女の衣を盗り、困った天女に自分らの子供になれと強要する。天女は「自分だけが残ってしまって、今はもうあなたがたの言うことを聞くしかない、従いますから衣を返してくれ」と懇願する。
老夫 「だまされないぞ」
天女 「天人のこころざしは信実をもって基本としている。どうしてそんなに疑うのか」
老夫 「疑心が多く真実のないのがこの世だからなのだ」
こんなシリアスなやり取りがあり、遂には衣を天女に返す。
天女は律儀にも老夫婦と一緒に十年暮らし、この世ならぬ霊酒を造り、それを売って老夫婦は大金持ちになる。すると夫婦は天女に、自分の子ではないから出て行けと責め、天女は「久しいあいだ人間世界におちぶれて天に帰ることができない。」と泣きながら放浪し、遂には奈具の村に落ち着いた。という厳しい話である。さらにこの地には、天女が子を儲けた話も残っていて、その子孫と称する家系が現在もあるというから、驚きである。
 
二つの逸文と比べると、能「羽衣」は丹後の逸文の名残を幾分か漂わせるが、生々しさや地方色が失われいかにも後世の机上の作である感じがする。ここには異種婚姻の不可思議さもなし、虚実のやり取りもない。では三保の羽衣伝説は能「羽衣」の作者(世阿弥?)のまったくの文学的想像かといえば、あながちそうでもないという。

江戸初期に林羅山のあらわした「本朝神社考」に引かれたは駿河国風土記には、天女が羽衣を取った漁夫と夫婦になるが、ある日羽衣をとって雲にのって去り漁夫もまた仙人になって天に上ってしまった、という話がある。
また、三保半島から少し西に行った久能海岸に平松という集落があり、そこには、天女が羽衣を持ち帰った男の家に、いつか取り戻そうと下女として住み込んで、三年目にようやく取ったが、見つかってしまったので、仕方なく事実を話し、「自分を産土神に祀れば永久にこの里を守りましょう」と約束して天に帰った、という話が伝わっていたという。
能「羽衣」の作者はこうした土着の伝説をベースに、華麗な三保の松原での天女の舞いに昇華させたのだろう。
 
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佐渡の外海府、北片辺にあった夕鶴の碑)
しかし丹後の風土記逸文にみられる天人界の清浄さと人間界の欲深さは、むしろ私に「夕鶴」を連想させる。純真なよひょうに惹かれたつうは、限界まで羽を抜いて機を織るが、よひょうは世間のお金にそそのかされて、つうとの信実を裏切る。つうは、もうよひょうの言葉も理解できなくなり、よろよろと飛んで天に帰り、よひょうは嘆きたちつくす。木下順二作で山本安英の一世を風靡した舞台だが、母体は佐渡に伝わる伝説だという。
数年前、私は佐渡を走っていてこの民話のふるさとに木下順二が揮毫した碑に出遭って思わず空を見上げたことを思い出す。
 
(以上、『羽衣・竹取の説話』平成12年静岡新聞社刊 を参照)