バッハへの旅ー3 (ヴァイマルのバッハ)

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ヴァイマルの中央広場)
ワイマールといえば、ワイマール憲法とワイマール共和国。教科書的にいえば第1次大戦に敗北したドイツが1919年につくった政治体制だったが、多額の賠償金、不況、そしてヒトラーの出現により1933年には事実上崩壊している。
今はチューリンゲンの森の中にたたずむ人口6万人の静かな町であるが、ガイドさんによれば最近は人口が増えてきているとのこと。町の旧市街は小さく歩いてもたかが知れている。「観光客のおかげで小さい店もやっていける」、とガイドさん。鳥取で暮らしたことのあるというドイツ女性であった。
 
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ゲーテとシラーの像 後ろは国民劇場)

この町は「古典主義の都ヴァイマル」として世界遺産登録がされていて、ゲーテ、シラーを中心とした歴史と文化遺産を登録遺産としているようだ。

詳しくは知らないが、多分、登録遺産にバッハは含まれていない。
だがこの町は、23歳になったバッハが前年に結婚したマリア・バルバラを伴って赴任し、宮廷オルガニスト兼宮廷楽師として31歳まで過ごし、たくさんの傑作を残した町である。ここでは第2領主であるエルンスト・アウグスト公子が大の音楽好きということもあり、バッハは若い才能を存分に開花させることが出来た。数多くのオルガンの名曲やブランデンブルグ協奏曲のうちBWV1048、1051がつくられている。また公子はオランダからヴィヴァルディなどのイタリアの新しい音楽の楽譜を持ち込み、バッハはこれに大いに刺激され「調和の霊感」を始め編曲も多数のこしている。

今回のツアーのコースにはバッハ関連ははいっていないのだが狭い町なので1人で歩いてもすぐ分る。中央広場にゆくと画家クラナッハの家もある。クラナッハについては、また別記したいと思っている。
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バッハの住んだ家は市庁舎とは反対側にある現在のホテルエレファントの脇で、写真のプレートが壁に埋められている。もうその家は現存しない。そのすぐ先にはバッハの胸像が、エルンスト・アウグスト公子の館(いわゆる赤の館)の脇に置かれていた。若いバッハは嬉々として足しげくこの館に出入りしたにちがいない。
 
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(赤の館にあるバッハ胸像:今は警察署?)
約10年の後、バッハは、1718年8月にケーテンの宮廷楽長に採用されるが、第1領主は解雇を拒否し、なおも辞任を主張するバッハは、なんと11月6日から12月2日の間、拘留される。
バッハは、辞任を強要する頑固な意思表示のかどにより、判事官邸内に拘禁されたが、12月2日にいたってようやく宮廷書記官をつうじて、失寵の通告とともに解任の沙汰を受け、同時に拘禁を解かれた。」(ヴァイマルの公文書覚書き:一部略)*1

いわば、懲戒免職となったわけだが、バッハの頑固さが伺われる。

領主を相手にこれだけ我を通すというのは、まったく、当時としては類のない頑固さであろう。そんなバッハの行動を、マリーア・バルバラは、いったいどんな思いで見守っていたのであろうか」*2
そういえば、ルターも頑固そうだ。この二人にはなんだか共通するものがある。
 
ちなみに、若いバッハは精力的だったのだろう。ヴァイマルにいた頃の10年間で、最初の妻バルバラとの間に7人を産んでいる。腹が休まる暇がなかっただろう。その内、長男フリーデマン、二男カール・フィリップ・エマニュエルは音楽家として大成した。そしてバルバラヴァイマルを離れたあと1720年に35歳で亡くなっている。出張中のバッハはその死を知らず、帰宅するとバルバラはすでに埋葬されていたという。
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(バッハとその息子たち :作者不明、1790年頃)
このころの女性については余り記録が残っていないのだそうだ。バルバラについても然り、長女ドロティアについても然り。
ドロティアは結局結婚することなく、母の死後バッハが再婚したマグダレーナと、おそらく弟妹たちの子育ての世話、家事手伝いしながら生活し、バッハの死後もともに暮らしたという。マグダレーナは確か13人の子を生んでいる。
成長したバッハの娘は4人いたのだが、どういうわけか結婚したのは1人だけで、3人は未婚で終わった。息子たちにも子供は多くなさそうだ。
バッハの家系図を見ると子供たちはともかくとして、孫の代の記録が急に減少する。一つには、世襲の音楽家という時代がおわりを向かえたのだろうと思えるが、なにか他にも原因がありそうな気がするが、私はよく知らない。

*1 「バッハ資料集」 バッハ叢書10
*2 「J・S・バッハ」 礒山雅 講談社現代新書