バッハへの旅ー2 (サン・スーシ宮殿:ポツダム)

ポツダムのサン・スーシ宮殿。
ここはプロイセンのフリードリッヒ大王の館であり、この大王は大の音楽好きで自身もフルートが大変上手く、毎晩というほどここで演奏会が開かれていたという。
ヨハン・セバスチャン・バッハがここを訪れた逸話はよく知られている。
 
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バッハは1747年5月に長男のヴィルヘルム・フリーデマンを伴ってベルリンへ向かった。3年後に亡くなるバッハにとっては最後の旅であった。二男のカール・フィリップ・エマニュエルは1740年からフリードリヒ大王に仕え、専属のチェンバロ奏者になっていた。彼にバッハ最初の孫が誕生していた。
バッハ伝を書いたフォルケルは、ヴィルヘルム・フリーデマンから直接聞いた、として次のように書いている。
 
「ある晩、王がちょうどフルートの準備を整え、彼の楽人たちもすでに集まっていたとき、役人の一人が到着した客人のリストを持ってきた。フルートを手にしながらその書類に目を通した王は、集まっていた楽員のほうへ急に向き直って、興奮した調子でいった。「諸君、老バッハがやってきた!」*1
 
ここで「老バッハ」は、いくつもの部屋に置かれていたフォルテピアノを試奏し、また王の提示する主題に即興的にフーガの演奏をして人々を驚かせ、おおいに称賛を受けた。この時に大王からテーマをいただいて、2ヵ月後に献呈したのが
音楽の捧げもの」BWV1079である。
ただし、「T・コールハーゼによれば、この時献呈されたのは、献呈の辞のほか、ポツダムでの即興演奏を譜面化した「3声のリチェルカーレ」と7曲のカノンのみであった。」
その後、2曲の謎のカノン、6声のリチェルカーレ、トリオソナタなどを作曲し、前者とあわせて出版したのだという。*2
これらの音楽には表情豊かで心にしみこんでくるような静謐さがあるが、その構造たるや極めて構築的で抽象的であることは譜面を読めない自分にも理解できる。タイトルを見ても無限のカノン、蟹カノン、同度カノン、反行カノンなどの技巧が並び、さらに「求めよ、さらば見出さん」などいう謎かけさえあって、その精巧な技術には私ども素人はついていけない。
 
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(フリードリヒ大王の演奏風景 すぐ右手チェンバロはバッハの二男の
カール・フィリップ・エマニュエルと思われる。下の写真と同じ場所になる)

こうした巧緻さは文字にもあって、
「例えば、作品の冒頭を飾る3声リチェルカーレRicercareと、第1ページに書かれた、以下の言葉が、文字合わせになっている。つまり、Regis IssuCantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta  (王の命令により、主題その他がカノンの技法で解決される)と書かれた言葉の頭文字をつなぎ合わせると、<リチェルカーレ>となるのである。」*3
バッハのなんともパズル的な感覚や頭脳には、ただ驚くばかりである。だがこれは単なるパズル遊びではなく、バッハが音楽によって世界の、そして神の真実へ接近する方法であったのだ。
 
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写真は、大王が演奏を楽しんだ部屋。チェンバロの上にあるのは大王の使ったフルートだろうか。
隣には客人のための控えの間があり大王趣味の絵画が飾られていたが、そこにバッハが一時控えたのかもしれない。
 
以前みた題名も忘れた映画でのバッハは、小太りで田舎丸出しの野暮な男であった。背も高くはなかった。しかし、1894年に聖ヨハネ教会墓地から掘り出されたバッハと思しき人骨は、がっしりした体格で手の骨が極めて発達していた。足指の先から頭まで195cmあったので、堂々たる体躯であったようだ。(参考 *2の口絵写真)
それに対してフリードリヒ大王は余り大きくはなかったらしい。
サン・スーシ宮殿での演奏風景は、大きなバッハが大王に対して思い切り身をかがめていたというのが、実際だったのかもしれない。
 
いずれにせよ、歴史の一点で、大王と大作曲家がであい、結果、人類史に残る音楽がうまれた。そういう不思議がまた聴くものの心に微妙な陰影を投げかけずにおかないのだ。そしてその火花が輝いたのが、ここサン・スーシ宮殿なのだ。
 
(ただし、断っておけば、この時大王がいた「王宮」が、サン・スーシなのか、旧王宮と呼ばれた宮殿なのかは、本当のところよく分っていないというのが、事実らしい。)
 
(参照)
*1 「バッハの生涯、芸術および芸術作品について」フォルケル (角倉一朗訳)バッハ叢書10「バッハ資料集」白水社
*2 「バッハ=魂のエバンゲリスト」 礒山 雅 (東京書籍)
*3 「バッハ事典」 426p (音楽の友社)