アイゼナハは人口約4万人、チューリンゲンの森に囲まれた小さい静かな町だ。
旧東ドイツだが西ドイツ境界に近く、ガイドの話では多くの住民が西ドイツに逃亡したとのこと。町を歩くと廃墟然とした家が残されていて、それは西ドイツに逃れた人々の家で、住んではいないが税金は払っているので行政も手がつけにくいのだそうだ。統一後、西ドイツの経済力を背景に街は急速に整備されたが、それまでは荒れた様相を呈していたようだ。同様な話はドレスデンでもワイマールでも耳にした。
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(ヴァルトブルグ城からみるアイゼナハの町)
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(ヴァルトブルグ城)
古い歴史を持ち、ルターがここに匿われて聖書のドイツ語訳をした現場であり、その部屋が公開されている。またワグナーの「タンホイザー」の舞台になった中世の吟遊詩人たちの歌合戦の場でもあったと言う広間も残っている。
そしてもちろん、バッハの生誕の街である。
街なかの小さいフラウエンプラン広場には、観光バスが数台停まっていて観光客が乗り降りしていた。ここに黄色いバッハハウスがあり、それはバッハの生家といわれていた家(事実はそうではない)だが、今は隣の現代的な建物をあわせて当時の生活を偲ぶ資料館となっている。
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興味深いのは古楽器の部屋で、ポジティブオルガン、クラヴィコード、スピネットなどが置かれており、私は折りよく学芸員の解説、演奏を聞くことができて幸運だった。またバッハハウスの庭の奥に、父ヨハン・アンブロジウスの住んだ家が見えていた。
売店ではBWV1041のコンチェルトの楽譜をプリントした買い物袋などを買って、ちょっとうれしい気分にもなる。
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外の広場奥には立派なバッハの像が足下一面のサルビアの上に立っている。この近辺を幼いバッハは遊びまわったのだろう。
そしてお昼は広場の脇にある「バッハ」の名をつけたカフェで、もうお馴染みになったソーセージとジャガイモのペースト状のもの(料理名を覚えない)。まずいわけではないが、料理のメニューの幅が少ない。日本のように、和食、中華、イタメシなんでもござれというわけにはいかないので、いつも同じものを食べている気になる。
バッハはこの街で育ったが、9歳の時に母を亡くしそして再婚した父はその翌年に亡くなり、少年はオールドルフの兄のもとに引き取られた。15歳のとき300キロ離れたリューネブルクに歩いて赴き無料の寄宿舎にはいっている。決して恵まれた育ちとはいえない。
バッハはその後故郷アイゼナハにもどることはなかった。
父のアンブロジウスは5時と10時の定時の2回市役所で時のラッパを吹き、各種催しのときや、またヴァルトブルグ城でも演奏をした。(ここの宮廷楽団には1708年にテレマンが職をえている)。またヨハン・パッヘルベルが1年だけバッハ家の子供の家庭教師をしているなど音楽家とのつながりは密である。
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(中央広場: 中央右が市庁舎 この窓からアンブロジウスはラッパを吹いた)
バッハの家系は音楽家として何代も続いたことで有名だが、ヨハン・セバスチアンが受洗したアイゼナッハの聖ゲオルグ教会のオルガニストは、132年間バッハ一族が勤めてきたという。一族はこの近辺の音楽の職を、おそらく結束して確保してきたに違いない。
この時代は、音楽家は職人であり身分も決して高くなかった。職業選択の自由などなく、生きていくためには音楽家の子は音楽で身を立てるのが当たり前だったし、そもそも音楽が作曲家個人の感情を表現するようなものではなかったのだ。
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(正面右側の家がルターハウス、この二階が彼の部屋だった)
この町はまた、ルターにとって重要な町である。
街なかのルターハウスは各国の観光客でにぎわっていた。ここはルターが学生のころ住んだ極めて古い家で、内部の木組みの骨格は無骨な堅牢さを感じさせる。ルターは音楽好きで声も良かったらしい。彼は讃美歌をたくさん作曲しているが、それはコラールとよばれ民衆に根付いた。バッハもその旋律を使ってカンタータをはじめオルガンの変奏曲などもたくさん作曲している。
また教会に反抗したルターは、公民権を奪われ命の危険さえあったのだが、領主によってヴァルトブルグ城にかくまわれ、ここで聖書のドイツ語訳という歴史的偉業を成し遂げる。
これは私が考え感じていたよりも、もっと歴史的に重要な政治的・宗教的・文化的事件だったようだ。
ルターが頑固に主張したのは、教会制度ではなく聖書に書かれていることを信仰しなさい、ということだった。聖書には教会はない、マリア信仰もない。それがカトリック教会の否定につながるのは当然だった。
その思想言動はなぜか私に浄土真宗に近いものを感じさせる。それがどこから来る感情なのか今はうまくいえないが、徐々に書けるようになるかもしれない。
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