バッハへの旅ー6 (バッハの死後)

バッハの伝記はたくさん書かれているが、多くはその死をもって閉じられ、死後の家庭について書かれているものは少ない。礒山雅氏が「J・S バッハ」の中でそれについてわずかに触れているのが、私の眼についたぐらいである。
 
意外にも、バッハの名声にもかかわらず、残された妻マグダレーナや女子たちは困窮に陥ったようだ。
 
イメージ 3
(左側の建物の位置にトマス学校があり:バッハはそこに住んでいた。
それは現存しない。右がトマス教会。バッハ像が見えている)

1750年7月28日、バッハが亡くなり、マグダレーナのもとには ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ18歳、ヨーハン・クリスチャン15歳、ヨハンナ・カロリーナ12歳、レギーナ・ズザンナ9歳が残され、さらに前妻の長女ドロティア41歳も同居していた。
ヨーハン・クリストフ・フリードリヒは既にビュッケブルグ宮廷音楽家の職を得ており、ヨーハン・クリスチャはベルリンのカール・フィリップ・エマニュエルのもとに引き取られた。残る2人の女子とドロティアは生涯未婚だった。
 
「アンナ・マグダレーナは、その3人の娘とともにライプツィヒに留まった。このときから彼女にとっての苦難の生活が始まった。市参事会は彼女にー税引きした上でーいわゆる半年分の俸給死後特賜金を承認したが、その支給期間が経過すると、彼女の収入の道は閉ざされてしまった。
困窮した彼女は、1752年に亡夫の楽器数点を売却した。やがて彼女は息子たちからも忘れられ、悲惨な境遇の身となった。1760年2月29日、彼女はその生涯を終えた」*1
 
マグダレーナの葬儀はどのように行われたのだろうか?既に名を成していた息子たちが、手厚くその最期を看取ったというような場面がなさそうだなのだ。
なぜ息子たちは、母を忘れて放棄してしまったのか?不思議としか言いようがなく、私の心に冷たいものが走る。
 
末娘レギーナ・ズザンナについては、1800年に、ライプチィヒの音楽新聞に広告記事が載っていて、
今やこの一族は、あの偉大なヨハン・セバスチャン・バッハの娘ただ1人を除いて死に絶えてしまったのです。
そして、現在この娘も高齢に達し、生活に苦しんでいる有様です」*2
と書かかれて、慈善の寄付を集めをしてもらっている。この記事も悲しい。
 
バッハは死後急速に忘れられてしまった。その墓の位置さえやがて判然としなくなった。ローベルト・シューマンは1836年に書いている。
幾時間もの間、私は方々を探し歩いたが、--「J・S.バッハ]という墓碑銘には行き当たらなかった。そこで墓守にこのことを尋ねたら、彼は、このような男は知らないとばかり首を横に振り、バッハと名の付く人は大勢いるものさと、言った。」*3
ただバッハの音楽は、その子や弟子たちさらに愛好家を通じて連綿と伝えられていた。
1829年に若干20歳のメンデルスゾーンがベルリンで復活上演した「マタイ受難曲」が大きな転機となって、いわば忘れられた巨人バッハが、現代によみがえってくることは、私がここで書く必要もないだろう。
イメージ 1
メンデルスゾーンの像:トマス教会前庭)
また1843年に、メンデルスゾーンはトマス教会の前庭に、バッハの記念碑を建てた、その際バッハの末裔を探しだし、来賓として招いている。それは前述したヨーハン・クリストフ・フリードリヒの息子の当時84歳になるウィルヘルム・フリードリヒ・エルンストで、バッハの7人いた孫のうち当時生き残っていたただ1人であった。
彼はベルリンで音楽活動をしていて、一族最後の音楽家となったが、だれも彼を知る人はなかったと、ローベルト・シューマンが書いているという。(礒山雅「J・S バッハ」 講談社現代新書
 
イメージ 2
メンデルスゾーンの建立したバッハの記念碑)
バッハの生きた時代、音楽家の社会的地位がいかに不安定なものだったのか、その中で一族が団結して職を確保してきた意味が身につまされてわかる気がする。バッハの栄光の凋落に、専門的技術集団が時代の波にくだけて崩壊していく有様を、見てとるのは私だけか。
 
*1 「バッハ 図像と証言でたどる生涯」 (ミヒャエル・コルト シュテファン・クールマン 編著 三宅幸夫・山地良造 訳 音楽の友社 )
*2 *3 同上