野火のなつかしさ

草焼いて里を離れぬ煙かな
 
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写真は野火というには、余りにさみしいものだが、それでも畑に煙が立っているのが見えると、不思議な懐かしさを覚える。昔は枯草やごみがあれば、その場で燃やしたものだった。だから里のあちこちに煙が立っていて、それが棚引く風景は日常だった。
そして落葉焚きから直ちに連想するのが焼き芋。
ところが30年ほど前、ダイオキシンという訳の分からない毒物が発生するということで急速に対策が取られ、市のゴミ焼却炉も高温化され、身の回りからは焚火や野辺の草焼きは姿を消してしまった。
 
秋田の民謡には野火が出てきて、心が和む。例えば、
「長者の山」
山さ野火ついた 沢まで焼けるな なんぼか蕨コほけるやら
「本庄追分」には
ハアー 本庄 ハアー名物 焼山の蕨ヨ 焼けば焼くほど ハアー太くなる
といういかにも長閑なもの。
 
野火というと焼き畑を思い出すが、焼き畑は稲作以前からの農作業だったのかもしれない。ワラビが大切な食糧だったことが真実伝わってくる唄である。

以前、由利本荘付近を通った時に、道の駅の物産店に寄ったら野菜はほとんど山菜だったことが思い出される。そういえば秋田には、「わらび座」という劇団もあるはずだ。
 
野火といい、山菜といい、どこか縄文文化の匂いがするので、私はシンパシーを感じてしまうのである。
 
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先日、堤防のワラビを観察に行くと、ジュースのストローほどの細いのが出始めていて、細いけど20本ほど採ってきて、晩酌の肴にした。苦かった。あわせて採ったヤブカンゾウは酢味噌和えになった。