サクラタデ砂糖細工をそと咲きぬ
近くの湿地に、サクラタデが咲いている。
湿地を保全する会の方々が、葦でぼうぼうな湿地を整備して、きれいなサクラタデの花園にしてくれたのだという。群生している風景はなかなかなものだ。
(白い絨毯だ)
サクラタデは、タデの中で花が最も大きく、真白な磁器のような、砂糖細工のお菓子のような、神秘めいた美しさをもっている。あたかも春のソメイヨシノの満開と似た雰囲気をもっている。
ところが、家に持ち帰って花瓶に差しておいたところ、どこからか何かへんなにおいがしてきた。嗅ぎ回ると、犯人はサクラタデだった。かるい腐敗臭とでも言えばいいのだろうか、鼻をつまむ、というほどの強い臭いでもなく、捨ててしまうほどの嫌な臭いでもない。
いわば、美女の軽い腋臭とでもいうのか。
「わきくさ物語」というへんな文章がある。
金関丈夫さんという博覧強記な学者が書いたエッセイとも論文ともつかない体裁で、岩波文庫の「木馬と石牛」に収録されている。
「匂う人種には匂う文学がある。」と書き出した文は、民族と匂い(体臭)の文学との関係について述べたもので、「わきくさ」とはワキガのことである。
氏は日本人の腋臭率は10.5%だという説をうけて、ヨーロッパ人の99%と比べると日本人は低い人種であり、日本の文学に体臭を扱った文学は少ないし、むしろ体臭を嫌悪し嘲笑する文学であると、実例を挙げて論証する。一方、西洋は体臭を愛でる民族であり、フランス、ドイツ、イギリス、さらにアラビアの千夜一夜物語、インドのカーマスートラまで話をひろげ、縦横無尽に臭いの文学を渉猟している。氏にとっては楽しい知の遊びなのだろう。
この中から一つだけ体臭文学の例を、本文から引用しておこう。
フランスのユイスマン著「巴里の素描」にある「腋香」のなかで、舞踏室の女の腕の香について、次のように書かれているのだそうだ。
「その薫りはアンモニアと化合した纈草(けっそう)*の香である。塩素で置換した尿の香である。どこかに青酸の仄かな匂いの漂う、爛熟した桃の匂いを想わせて、しばしば激しい肉感をそそる」
わたしはこの本を読んだことはないが、一体どう想像していいのか日本人には理解しにくいのではないか。日本人はにおいに敏感だといわれ、テレビコマーシャルで流れているのは、体臭、口臭、トイレのにおい、車のにおいを消す消臭剤ばかり。特に最近は、老臭という単語も大流行である。これらは悪臭だというわけだ。そして消臭したあとに、化学薬品の合成臭で、何か花のような(私にとっては)きわめて臭いにおいを撒き散らして、それを文化的だと思わせている。
一方で香道のような繊細な文化を持ちながら、なぜ日本人は、上記のユイスマンのように、体臭を表現することがなかったのだろう。
話が飛んでしまったが、数少ない日本文学の例として、万葉集の次の歌があげられている。
ここに問題の、タデと臭いが出てくる。
「小児(わらは)ども草はな刈りそ八穂蓼を穂積の朝臣が腋草を刈れ」(巻16 3842)
この歌は、平群朝臣(へぐりのあそん)が穂積の朝臣(ほづみのあそん)の腋臭をからかった歌らしい。
中西進さんの訳によれば、
「子供たちよ、草は刈るな。穂の多い蓼の、穂積の朝臣の腋の草を刈れ」という意味で、歌の中の腋草は、腋臭(ワキガのこと)という草。腋毛も多かったろう。
と注釈している。
サクラタデが、ふと臭ったことから、ついつい「わきくさ物語」などを連想してしまった。
しかし、この程度の臭いは、日本人には異臭かもしれないが、「匂う人種」にとっては当たり前なことであり、むしろこれでは足りないと思うかもしれない、などと毒にも薬にもならないことを考えながら一杯飲んだ次第。
ちなみに、纈草(けっそう)とは、私は実物をまだ知らないのだが、カノコソウともいいオミナエシ科で5,6月頃オミナエシに似た淡紅色の花をつける、という。別名はハルオミナエシ。
付け加えれば、オミナエシは非常に臭いので、部屋に活けるものではない。サクラタデと同じに、これも美女の腋臭かもしれないが、こちらはチョッときつい。
(参考)
「木馬と石牛」の「わきくさ物語」 金関丈夫 岩波文庫
「万葉集」(4)中西進 講談社文庫