「卯の花と小町」雑談

色うつる卯木の花を挿頭(かざし)かな

山では卯木が満開。種類もいろいろだ。

おや、花の色が白とピンクのものがある。

帰宅して調べたら、ハコネウツギ(もしくはニシキウツギ)らしい。いずれも白から赤に変化し、両者の区別は難しいとのことなので、即断はしないでおこう。

近くにあったスイカズラもまた白から黄色に変化する。酔芙蓉も白に咲いて午後には赤に劇的に移っていく。ちなみにウツギはスイカズラ科。

色がうつると言えばこの歌。

 

花の色はうつりにけりないたづらに我がみよにふるながめせしまに

 

言うまでもなく小野小町の歌。美女だったという伝説が流布しているが、ほとんど資料は残っていないようだ。

伝説の一つに彼女のもてぶりがある。言い寄る男は数知れないほどだったが、それをすべて拒否してしまう。特に御執心なのが深草の少将で、小町に百日通ってくださいと言われ、九十九日まで通ったものの満願の最後の日に事故で死んでしまう。現在ではほとんどストーカーに近いのだが、逆に小町が薄情な罪深い女にされている。

 

絶世の美女と言えば、クレオパトラ楊貴妃、虞美人。クレオパトラはその乳房を毒蛇に噛ませて死んだという。楊貴妃は、玄宗皇帝が連理比翼と泣いて死を命じたという。虞は「虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」と、項羽は嘆いたがその結末は明らかではない。いずれも華々しい最期なのだが、それに比べ小野小町は、生き永らえて老醜をさらす話が異様だ。

 

手元にある「謡曲集」1,2を開いてみると、小町とつくものには、卒塔婆小町、通小町、関寺小町の3曲が載っていた。(謡曲など全く知らないし、この本もたなたま置いてあるだけ)*1

能の中で小町は、老婆として現れる。百歳になっても罪業のために死ねず成仏できず、この世を彷徨っている。女乞食である。

だがそこは世紀の才女たるゆえんで、「卒塔婆」では百歳の女乞食の姿で現れるが、高野山の僧を仏教議論で言い負かす。「関寺」では老いて貧しい小町が僧たちに歌道を教え舞うなど偉才を見せるのだが、最後は又とぼとぼと戻っていく。

「通い」では、老いた小町が成仏できずにいたが、それは深草の少将が死んでもなお執着して小町の成仏を妨げていたのだった。しかし僧の前で百日の通いを再現することによって少将も小町も成仏する。というもの。私はいずれも舞台を見たことはない。

 

美女が救われず老残をさらすという構造は、いかにも村社会的発想で陰湿であるが、彼女の和歌、「花の色はうつりにけりな」とか「わびぬれば身をうき草の根をたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ」などが、そうしたイメージを掻き立てるに格好の材料となったのかもしれない。いずれも現世のはかなさ、信心の尊さを教えるものだったのだろう。

 

能は知らない世界だが、私は昔から覚えている川柳がある。

「百日目小町は素股でさせる気か」

意味はいうまでもないが、さて今回出典を探そうとしてみたが、見つけることができない。さて一体どこで読んで覚えたのだろう。

 

*1 「日本古典文学全集」33、同34 小学館