さむい散歩道ー2 

不思議だ

あなたに肉体があるとは     三木卓

 

詩人で作家の三木卓さんが去る11月に亡くなられた。静岡市にある静岡高校を卒業されており、最近まで地元の静岡新聞にもよく記事を寄せられていて県民にもなじみが深かった。しかし私はまったく三木さんの作品を読んだことはない。

だが、私はたった20文字ほどの言葉で、この人の名を忘れることができない奇妙な遭遇をした。それが冒頭のフレーズである。

(昭和45年頃 仙台市河原町付の広瀬川淵から遠く広瀬橋を見る:右側が長町)

20歳かそこらの私は、当時仙台で貧しい学生生活をしており大学は紛争の真っただ中で騒然としていた。私は何のつもりか一年次にクラス委員長などを引き受けて、民青や社青同、革丸そしていわゆるノンポリが混在するクラス会議を開いて、学費値上げ反対などのクラス決議などを討論したものだった。しかし次第にゲバルトにもうんざりし、生来の怠け癖も出て、大学にもいかず昼夜が逆転した自堕落な生活を送っていた。学業に目標が持てず、そして生きている意味やら、自分は本当に他人を愛せるのかなどと、今思えば過剰な自意識をもてあましてうろうろしていたのだろう。

そして自分の自意識過剰という罪悪を救ってくれるのは、「罪と罰」のソーニャのような女性だと思い込み、それを愛しく付き合っている女性に過剰に投影していた。それでもなおそれは愛ではないと、自分の原罪のような罪深さにひしがれ、無垢な精神を崇め自分を呪っていた。多くの若者にありがちなことである。

 

そんなある初冬のころ、アパート近くの広瀬橋を歩いていると、紙切れが足下にカサカサと飛んできた。おやッと思って拾い、みると鉛筆で字が書いてある。

 

不思議だ あなたに肉体があるとは

 

私はウッと息をのんだ。これは私が言葉にしようと悩んで求めていたまさにその言葉ではないか。気高く愛しい「他人」という存在を理解しようとしたときに私の前に現れる、まさしくその有様、ソーニャではないか。

私は紙切れを手にして、当惑した。まさか誰かが私の精神を知っていて、それで私が歩いてくるのを見計らってここに置いたのか。…そんなことはありえない。とするとある偶然が、私にこの言葉を授けてくれたに違いない、・・・それは神としか言いようがない何か偶然の恩恵なのだ。と思った。

その後いろいろ調べて、これは三木卓の詩の中の1,2行だと知った。そしてこれは、自分が広瀬橋という橋の神からいただいたもの、と理解した。

その後三木卓さんの小説や詩集を開くことはなかった。私にはこの一行だけでもう十分に思えたのだった。人生の出会いの一つである。

(平成25年 久しぶりに訪ねた広瀬橋は工事中だった 前方が河原町。紙切れはこの写真の歩道の中ほどに落ちていた記憶がある)

昔の思い出は多くがぼんやりとした箱の中に入ってしまったが、この散歩の奇跡的な遭遇は、まだ鮮明な記憶の一つである。訃報から思いだして、恥ずかしい気もするが、ついつい書いてしまった。

三木さんのご冥福をお祈りする。