山百合や修験の道の艶やかさ

村山道下山の3回目を歩いた。
今回は、標高約1000mの天照教社から標高約500mの村山浅間神社まで、やく3時間ほどの行程である。先日は大雨警報が出たので、荒れていないか心配だったが、ルートにはあまり影響が見られなかった。ただし天照教社への林道に土砂が堆積していて、車輪をとられヒヤッとした。帰路はその場所を回避して、十里木から吉原を廻って来る羽目となった。
スタート地点にある「天照教社」は、案内本を見ると、トイレを借りる時には声をかけて、などと管理者がいるようにも書いてあるが、今は人がいるようには見えず、荒れた印象がある。
村山道を歩く前は全く知らなかったのだが、調べてみると意外に幕末、明治の日本史に関連があるので驚いた。天照教の創設者は徳田寛豊といい、桜田門外の事件に関係して身を隠し全国を転々、明治になって西郷隆盛や初代静岡県令大迫貞清、清水次郎長などの支援を受けてこの地を購入して開拓し、明治12年に伊勢神宮から分霊して天照教富士山本社を開いたのだという。境内には宿屋が36軒あるほどにぎわった、という。今は人影はない。荒れた庭に清水次郎長御手植えの桜を見つけた。備忘として記しておく。

さて、今回のコースは1,2回とは異なりスギヒノキの植林帯と集落風景だった。そのためしっとりした苔の道もなく、普通の里山歩きと大差ないので感動も少なかった。
登山道は水の無い沢やら林業のためらしい道などを辿り、随所でえぐれて荒れた沢を避けて迂回したりして、それでも赤いテープを目安にいけば概ね迷うことはなかった。この辺りは民有地なので、「土石流のため植林の林床を歩かせていただきます」という地主への断り書きのような案内板が随所に見られる。単純に、ハイキングコースの設定をしたい、という訳にはいきそうもない雰囲気が伺える。
歴史的な見所も余りない。唯一珍しいのが、札打ちされたケヤキの大木。樹齢はどのくらいなのか分からぬが、ルート上にどっしりと構えていた。
札打ちというのは、「巡札者が、社寺の戸や柱に札を貼りつけること」( Weblio)。私は釘で打ち付けるのかと思っていたがそうではないらしい。この大木には、確かにたくさんの札打ちがあり、木札がしめ縄に掛けられたり根元におかれたりしていた。子どものものが沢山あり、これは地元の生徒が札打ちしたもののようだ。ただし「このケヤキは札打木としての役割を担っているが、果たしてこのケヤキの大木が、江戸時代以前も同様にその役割を果たしていたものかどうかは定かでない。」*1
また、里近くには馬頭観音もあったが、珍しいものには思えなかった。

この日は、珍しく登山者に出会った。男女4人の組と、男性のソロ2人。1人は地元の方でこのルートをもう20回も登っているという、1人はランを探しているようだった。私もルート上でランを見つけた。はっきりしないが、ギボウシランかなと思える。

さて、民家が見えてきて舗装道路になると、道脇の山百合の群生が満開だった。強い香りが漂って来る。みごとな咲きっぷりに感激する。この時季富士山麓は山百合の園となるようだ。
石畳の道を降りると、終点の村山浅間神社。昼を入れて約4時間の行程だった。

村山浅間神社は、世界遺産登録されている。かつては富士登山の拠点であり、坊も3つあって諸国からの登拝者がここに宿をとりにぎわった集落だそうだ。この10年ほどで整備が進められ社殿も立派になっているし、水垢離の施設などもきれいにされている。駐車場も大きく確保された。
この神社については、また別に備忘まとめをしたい。
これまでの3回の下山で感じたのは、第1回と2回に歩いた1000mから1700mのルートは実に魅力的で安全な登山道だということだった。一度歩いたら多分忘れられなくなるだろう、そういう魅力がある。第3回は植林地なので魅力には乏しいけれど、拠点の村山浅間神社からの導入路として大きな意味がある。そして1700mより上はハイキングというよりきつい登山となる。村山浅間神社をスタートし、村山口の信仰と歴史を感じとりながら、500mから1700m辺りまで歩ける、新しい富士山の魅力が発見できるコースとして、多くの人に知ってもらいと改めて思っている。
*1 「富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道」 静岡県富士山世界遺産センター・富士市・富士宮市