枝垂れ桜の秘密(バラ科:New野の花365日)

思い立って身延山久遠寺の枝垂れ桜をみに出かけた。
大勢の花見客に紛れ、きつい階段を上って境内に入ると、樹齢400年の銘木はまさに満開。花が地面まで届くほど溢れこぼれて咲いていた。
カメラを3台も担いだおじさんが、
「今年はこの3年で一番いい。雪でひどくやられたけどね」と話しかけてくる。
久遠寺だけでなく西谷の諸寺にも沢山の枝垂れ桜があり、これらを見逃す手はない。ここはまさに桜の逧である。
 
枝垂れ桜をみていると、ある種の霊威を感じるのは私だけではないだろう。豊かさ、艶やかさやはかなさもあるが、それを通りこしてなにか命の凄絶さ、空恐ろしさのようなものがある。それが桜の妖しい魅力になっている。
柳田國男は信州に枝垂れ桜の巨木が多いこと、しかも墓所や寺に多いことに関心を示して次のように書いている。
  事によると霊場殊に死者を祭る場処に、是非ともしだれた木を栽ゑなければならぬ理由が、前代にはあったことを意味するのかも知れぬ。
  神霊が樹に依ること、大空を行くものが地上に降り来たらんとするには、特に枝の垂れたる樹を択むであらうと想像するのが、もとは普通であったということである。

  (しだれ桜の問題」「信濃桜の話」)

前代までは、枝垂れ桜は観光客の愛ずる美などではなく、神が降りてくる目印、死者が空に登る階段であり、神の聖なる高速道路であったのかもしれない。
これによれば、桜の樹の下には死体があるというというイメージは、何かを言い当てているのだ。
 
もう何年も前に確か長野市の水野美術館だったか記憶が定かではないが、加山又造の「おぼろ」という屏風絵を見たことがあった。満月に桜がお化けのように枝垂れている金屏風だった。思わずその小さいプリントをもとめて、しばらくの間壁にかけていたことを思い出した。

花や重し枝垂れても一度地に触れて

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