大勢の花見客に紛れ、きつい階段を上って境内に入ると、樹齢400年の銘木はまさに満開。花が地面まで届くほど溢れこぼれて咲いていた。
カメラを3台も担いだおじさんが、
「今年はこの3年で一番いい。雪でひどくやられたけどね」と話しかけてくる。
久遠寺だけでなく西谷の諸寺にも沢山の枝垂れ桜があり、これらを見逃す手はない。ここはまさに桜の逧である。
枝垂れ桜をみていると、ある種の霊威を感じるのは私だけではないだろう。豊かさ、艶やかさやはかなさもあるが、それを通りこしてなにか命の凄絶さ、空恐ろしさのようなものがある。それが桜の妖しい魅力になっている。
・ 事によると霊場殊に死者を祭る場処に、是非ともしだれた木を栽ゑなければならぬ理由が、前代にはあったことを意味するのかも知れぬ。
・ 神霊が樹に依ること、大空を行くものが地上に降り来たらんとするには、特に枝の垂れたる樹を択むであらうと想像するのが、もとは普通であったということである。
(しだれ桜の問題」「信濃桜の話」)
前代までは、枝垂れ桜は観光客の愛ずる美などではなく、神が降りてくる目印、死者が空に登る階段であり、神の聖なる高速道路であったのかもしれない。
これによれば、桜の樹の下には死体があるというというイメージは、何かを言い当てているのだ。
花や重し枝垂れても一度地に触れて