秋の古代廬原(いほはら)国:三池平古墳(シリ-ズ風景の中へ26)

秋の1日、旧清水市の公民館の考古学講座に参加して庵原国(いほはらのくに)の古墳をみてまわった。講師はこの地域の発掘に長いこと携わってこられたS先生で、個々の古墳の出土状況や発掘の裏事情まで知悉されておられ、話に興味は尽きない。

今回は、旧清水市庵原地区にある「三池平古墳」を中心にした見学コース。この古墳は、標高49mのミカン山にあり清水港を望む眺望は素晴らしい。きれいに芝生で被われた緑が青空の下、実に爽やかである。全長68mの前方後円墳で、築造は4世紀末から5世紀初頭と推定され、未盗掘で数多くの副葬品が出土しており、地方の古墳としては武器類が多いのが特徴だという。埋葬されているのは成人男子(30代?)と思われ水銀朱で被われていたようだ。

 

いほ原の国は、静岡県富士川から大井川の間にあったとされて、今は旧清水市に庵原という地名を残している。この地域に勢力を張った庵原氏は、日本書紀にはその英雄的姿をチラッと見せる。西暦663年の白村江の戦いの最中の秋のことである。日本軍の旗色が悪いときに、百済王が次のように言って兵を鼓舞している。

「大日本国の救援将軍廬原君臣が、兵士一万余を率いて、今に海を越えてやってくる!。どうか諸将軍たちはそのつもりでいてほしい!」

実際に船が出航し白村江で戦ったのかは不明である。しかし、この廬原氏は、吉備の国との縁も深く操船技術に長けていた氏族と考えられており、清水港辺りで造船し船団を組み、舳艫千里朝鮮に向かった事実があっても不思議ではない。大和政権に服従した証としての出兵であるといわれるが、百済王に「大日本国の救援将軍」といわれているのだから例え誇張があるにせよ、名を馳せる実力はあったのだろう

三池平古墳は、その廬原氏の墳墓である可能性が極めて高いのである。

 
ついでながら、三池平古墳の直ぐ近くに、東クサナギ神社がある。この社名は久佐奈岐(くさなぎ)と表記する。この社に隣接してやはり古墳群がある。巴川を挟んだ対岸には草薙神社があり、そのあたりは草薙という地名である。すなわち草薙神社は2つあることになる。ヤマトタケルノミコトの東征に際し、反抗した部族が火を放った伝説で有名だが、この地が静岡平野であるとすれば、丁度廬原氏の勢力地域下での出来事になる。では火をかけたのは廬原氏だったのか。これは後日、神社を訪ねながら夢想しよう。

秋高し古墳をよぎる鳥の影

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三池平古墳から秋色濃い清水港を見晴るかす