今度はルノワールのヌード像

ブロンズの裸婦のおいどや冷えきって
 
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(「勝利のヴィーナス」 後姿のほうがいい)
さて、釧路の幣舞橋で4体の裸婦像を観察してきたので、勢いづいてJR静岡駅南口、バス乗り場に建っている裸婦像を観察に行った。「勝利のヴィーナス」(上)と「洗濯する女」(下)の2体あり、制作者はかのオーギュスト・ルノワールである。晩年になって彫刻に取り組んだが、その手はリューマチで動かず、ためにイタリアの若い彫刻家リシャール・ギノが実際は作成したものであるという。
今回はその立派なオイドを撮影してきた。ルノワールだもの肉付きのよさは一流だ。しかしこれが優れた彫刻かどうかは私には分らない。ただ改めて観にこようとは思わない。
 
この像は静岡市が購入したもので、2体で1億3千万円だったと記録にある。バブルの頃のものだろうか。文化を感じられる街づくりのための投資なのだという。
しかしルノワールの裸婦像がバス停にあることが、あまりに唐突で脈絡がないので、見る人は怪訝な顔をして避けて通り、そもそもほとんどの人がこの像の存在を知らない。あえて言えば、街の異物である。
一方、駅北口には徳川家康の像と竹千代の像が最近になって建立された。家康の駿府静岡としては極めて定番であるが、竹千代像の前では写真を取る人も見受けられ、地域の歴史・文化のPRとしては圧倒的にこちらに軍配が上がる。
 
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(「洗濯する女」)
そもそも為政者は何をもって裸婦像が文化的だと思ったのだろうか?
「明治以来、欧米並みを目指して、日本各地に多くの公共彫刻が建立された。(略)しかし公共空間における裸体彫刻の展示は、「形像取締規則」を根拠に、風俗を害するとして禁止されており、人々が屋外で目にすることになったのは、軍国主義天皇崇拝を体現した著名な男性の像ばかりだった。戦後GHQ / SCAPの意向もあり、それら愛国系男性像は台座から追い落とされる。代わって登壇してきたのが「平和」のメッセンジャーとしての裸の公共彫刻だった。いま私たちが駅前広場や公園で目にする素っ裸の「平和の女性像」や「平和の子供像」の起源はここにある。」(「ヌードと愛国」池川玲子 講談社現代新書
 
なるほど池川さんによれば、かつて裸婦は平和の象徴だったのだ。武器は持っていませんと素っ裸で証明し、また母性は戦いではなく命を守り育む象徴というわけだろう。それがマチカド裸婦像の設置の心情なのだということか。
だが平和のメッセンジャー役はもう終わっていると私には思えるが、としたなら現在の街なかのヌード像のメッセージとは一体なんなのだろうか。役目が終わってなんの文脈もなく女たちはそのまま立ち尽くしているようだ。
街角のヌード像の見方、を是非プロから教わりたいものだ。