秋の陽のまだ教会の塔にあり
長野県の北はずれに近く、飯山という町がある。
冬は積雪に悩まされ、大きな産業もなく人口減少の激しい町である。だが千曲川と周辺の山々はのどかで、四季の彩りは鮮やかそのもの。都会から来た人は目を見張るだろう。ここが私のふるさとである。
ちなみに文部省唱歌の「ふるさと」は、この地の出身で文部官僚であった高野辰之の作詞になる。彼は自分の生まれ育ったこの地への思いを、「ふるさと」に歌いこんだ。日本人のふるさとイメージは、まさにこの奥信濃の地がモデルなのだといっていい。
この町には寺が多い。
また仏壇製作の町でもあり町の山手には仏壇の店が軒を連ねている。このあたりは浄土真宗が一般的であり、かつては真宗の仏壇は漆がこってりして金具が金ぴかな豪華さを特徴としていて、極めて高価なものだったが、貧しい人たちが心血注いで仏壇にお金をかけたのも不思議な感じがする。
早くに故郷を出た私には分りにくい心情だが、そういう風土だったのだろう。
前段が長かったが、
この町に聖公会の教会がある。
内部は珍しい畳敷きである。昭和7年の建造である。
指定を伝える産経新聞はこう書いている。
同市教委によると、教会の建設に当たっては、カナダ人宣教師、ジョン・ゲージ・ウォーラー司祭(1863~1945年)の尽力があったという。ウォーラー司祭は、カナダ聖公会伝道協会の布教のために来日し、長野市や千曲市など東北信地域で聖堂建設に力を注ぎ、伝道活動も活発に行った。
指定を伝える産経新聞はこう書いている。
同市教委によると、教会の建設に当たっては、カナダ人宣教師、ジョン・ゲージ・ウォーラー司祭(1863~1945年)の尽力があったという。ウォーラー司祭は、カナダ聖公会伝道協会の布教のために来日し、長野市や千曲市など東北信地域で聖堂建設に力を注ぎ、伝道活動も活発に行った。
ここが、母が生前心の支えとして熱心に通った教会であり、(信者でない)私が結婚式を挙げた教会である。
教会堂は洋風建築など少ないこの田舎町にとって、異物とは言わないまでも極めて異質な空間だった。それは母に連れて行かれた幼い私にとっても同様だった。
このニュースにいささかの感慨がわかざるをえない。