ドボルザークの歌劇「ルサルカ」水の精とは?ー2

水の精と王子の恋と破綻という物語は、さまざまなバリエーションで西洋各地に伝えられていたようだが、われわれがよく知るものは、フーケの「水妖記」、ジロドゥの「オンデーヌ」、水の精ではないがアンデルセンの「人魚姫」などがある。(逆に言えば私はそれしか読んだことがない)
 
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「オンディーヌ」 1872年 ジョン・ウィリアム・ウォターハウス画

私は精霊にはあまり馴染みがないのだが、「水妖記」のウンディーネは恋人の騎士に、自分が精霊だと告白して精霊の説明している。
それによれば、精霊は地水風火の中に住み、水の精はウンディーネ、地の精はグノーム火の精はサラマンダーといい、人間と同じ形をしているがめったに姿をみせない。そして魂を持たないので、人間は死んでも永遠の命を得るが、精霊は死ぬと微塵になって滅び跡形も残らない。魂を得るには人間の1人と愛でもってぴったり結びつかなければならない。と。*1
 
これは、山川草木、森羅万象あらゆるものに精が宿るとする、いわゆるアニミズム的な自然観であり、日本とも共通した観念に思える。
だが日本では西洋のように人間に似た妖精の姿は与えられず、むしろ湿っぽく怖い妖怪のようなものが多いように思える。たとえばカッパはやや人間に近い形だが、明らかに異なり、性格も剽軽なようでいて残忍である。新しいところでは、トトロなども森の精として登場したが、これも妖精というよりとぼけたタヌキの妖怪に近いイメージである。ピカチューも仲間に入れていいかもしれない。
日本では水の霊はミズチであり、チは霊力のあるもののいいで、またチは蛇である。こうしてみると日本では精霊は、人間よりもむしろ動物に近い存在と考えられていたのかもしれない。
水木しげるではキタロウなどが人間っぽい姿をしているが、あれは彼の創作であり本来の精霊とは違う。彼は、それまで現象として伝えられていた妖怪の「しわざ」を、その現象を引き起こす存在に変換し、抜群の創造力でもってそれを描き出した。水木以前と以後とで、われわれの精霊、妖怪観が異なることに、気をつけないといけない。
 
こうした西洋の精霊たちは、民族・地域それぞれ固有の姿を持ち、人の身近な森や水辺に住んでいたと思われるが、徐々にキリスト教が席巻していく過程で、いかがわしく邪悪なもの、低俗な俗信として異端扱いされるようになり、やがて文化の表面から消し去られ闇にまぎれていく運命をたどることとなった。神々の流竄というわけだ。

しかし彼らは根絶されたわけではなく、童話のなかに現れて邪悪な魔女や悪魔を演じたり、祭の道化などに姿をかえて生き残ってきて、やがて19世紀にいたり民族主義・浪漫主義の風潮の中で恰好のモチーフとして再認識されるようになったのだろう。
私は大雑把に、このように理解してる。

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氐人国 「人面で魚の身、足がない」
(古代中国の妖怪集「山海経」から)

精霊はいわば自然そのものであり、これに対して人間の文化は自然の秘密を暴き、壊し利用するものである。したがって精霊と人間との愛が永続することはありえない。移ろいやすく死の定めのある生き物と、魂を持たぬ永遠の命の精霊との間に、約束事は守られるはずがない。したがって愛は破綻し人間は命を失うことは定めである。
この物語に、こうした自然と人間との相克を見出すのは容易であろう。
 
しかしルサルカも人魚姫も、約束が破られた時は、永遠の命を失う、とされている。逆にルサルカもウンディーネも人魚姫も、人間の魂は死して後永遠の命を得て天上にゆくということに憧れる。
アンデルセンは、人魚姫を泡として消してしまった後、空中を漂う霊的なものと化して救いの道を示している。いわば煉獄ではあるが、姫の未来にはキリスト教の天国への道が開いている。
 
この構図は、自然と人間の対立という枠をこえ、魂の救済にかかわるアニミズムキリスト教の対立となっていると思える。
人魚姫では明らかにキリスト教の救いに真実を見出しているが、ルサルカではその点ははっきりしないもののむしろ永遠の救済を拒否して自ら死を選ぶ姿は、非キリスト教的といえそうに思える。
 
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こうした神と精霊の対立は、日本で言えば、いわば仏教と原始神道アニミズムの神々の対立に似ていなくもない。魂の救済を算段する仏教に対して、そうした教義を持たない原始神道に、どんな救いの方法があるだろうか。
それは己を大自然の一部とわきまえ、従容として死を受け入れる。個々人の魂の救いという段階ではなく、もっと大きな宇宙の虚無に身を任すしかないのではないのか。

オペラの台本を読んでいないので理解できない部分ではあるが、自ら死を選んだ王子と、永遠の沈黙に沈み込むルサルカに、ドボルザークは救いを与えていたのだろうか。
最後にルサルカが、「人間に祝福あれ」と歌うのは、キリスト教的な来世の永遠の命を得るものとしての人間ではなく、不完全であり死を運命づけられたはかない命の、それゆえの尊さ美しさを賛美した歌声として響いてくる。それは神の讃歌ではなく人間の讃歌にきこえてくる。
これが救いであるかどうかは、個々人の心性によって受け取り方が違うだろう。
 
私の敬愛する民俗学者谷川健一氏は、自分が死して南島の磯の波に洗われる小石になるイメージをどこかで語っていたことを思い出す。照りつける太陽の下の青い世界で、それは虚無だともつぶやいていた。