牡丹の句と蕪村

桃色の牡丹なりしが衣脱ぐ
 少し早いが、もう牡丹が咲いていると聞いて古刹を訪れると、雨上がりに花は頭を垂れ昨日の雨を滴らせていた。一部はもう花びらを落とし始めていた。
 
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蕪村には牡丹の句が多い。

牡丹散て打かさなりぬ二三片

この句は、特に際立った工夫がみられるわけではないが、忘れられない句である。
上五が1つ多い6文字であり、それがたゆたうゆったりとしたリズムをうみ、花びらの柔らかさをイメージさせる調べとなっている。また「重なる」ではなく「打ち重なる」としたことにより、今しハラリと散り落ちてきた動きをスローモーションで見るように感じさせる。そんな気がする。
次のような句もビジュアルで奇抜で物語的で、印象がつよい。閻魔様の口とは、よくも言ったものだ。
 
 閻王の口や牡丹を吐かんとす
 牡丹剪って気の衰えし夕べかな
 地車のとどろとひびく牡丹かな
 
牡丹は豪華な花であり、江戸時代の中ごろには園芸花卉として人気を得ていた。蕪村は好んで牡丹を詠んだ。
 
子規は「俳人蕪村」で蕪村の牡丹の句を積極的美として例示している。
積極的美とは、意匠が壮大、雄渾、艶麗、活発、奇抜なものであり、逆に消極的美とは、その意匠が古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいい、互いに優劣はないものの、芭蕉が消極的美を用いることが多く、また後世芭蕉派がそれに倣ったため、消極的美が唯一の美とされ積極的美が貶められた、と主張する。子規が蕪村を評価する、その論拠である。今でも、十分通用する批判だと私は思う。
 
では、芭蕉はどうだったのか。
子規は、芭蕉の句の「牡丹蕊深くわけ出る蜂の名残かな」を、ただ季の景物として牡丹を用い、「寒からぬ露や牡丹の花の蜜」を、極めて拙き者なりと手厳しい。
芭蕉の美には豪華絢爛な牡丹が座る席がなかったということだろうか。

また若葉についても「蕪村には直に若葉を詠じたる者十余句あり、みな若葉の趣味を発揮せり」と評価し、芭蕉は1,2句にしてみな季の景物として応用したに過ぎないとしている。
蕪村と芭蕉の違いが目に見え、合わせて子規の感覚も伝わってきて面白い。

ちょっと追加しておくと、一茶にはこんな句がある。一茶らしいね。
掃(はく)人の尻で散りたる牡丹かな