合唱「赤とんぼ」から桑の実を思い出して

桑の実や昭和の子らよ野に歌え

イメージ 1
(合唱団「西の風」のみなさん)

「西の風」という女性合唱団の指揮をされている先輩から、演奏会に招いていただいた。
彼がこのかた20年手塩にかけて育てた合唱団であり、観客が大ホールを埋め尽くす盛況から本当に地元に愛されているようすがよく伝わってきて、私もうれしかった。

市民合唱団だといっても、第1部はモーツァルトの「戴冠式ミサ」 KV.317の全曲、第3部は高田三郎高野喜久雄の「ひたすらな道」全曲を歌うという正統・実力派である。
第2部は童謡唱歌さだまさし、と少し柔らかい構成としていたが、それでも山田耕筰の「赤とんぼ」を増田順平、信長貴富の2つの編曲で観客にその音の違いを聞かせるなど、啓蒙的でかつチャレンジ精神の貪欲さを感じさせる内容となっており、聴く側にとっても刺激となった。私も充実した時間を過ごせた。
 
桑の実や指口べろをぶすた色
(ぶすた色とは、下記を参照)
イメージ 2
(桑の実 まだ熟れてません)

さて、三木露風の「赤とんぼ」は、誰もが知っている、♪夕焼け小焼けの赤とんぼであるが、私はその歌詞でずっと勘違いしていたことがある。
1番の「負われてみたのはいつの日か」は「追われて」だと受け止め、変だなと思っていた。
また「15でねえやは嫁に行き、お里の便りも絶え果てた」とは、ずいぶん簡単に姉との繋がりをなくしてしまうものだと訝しく思っていた。もしかしたら嫁ぎ先が厳しい家で姉は不幸だったのか、悲しいものだなどと考えていた。
ところがこれは「姐や」で女中さんとか子守のことであって実姉の意味ではないと知り、なんだかほっとしてがっかりした。そんな記憶もある。
 
当日の演奏会で先輩は、指揮の手を休めて、桑の実を説明した。今日日、もう桑を知る世代も少なくなったこともあるのだろう。そして「私のお袋の名前は、くわというので、この歌を歌うと思い出して胸に来ることがあるんです」とひとこと言われた。
私の胸にも、何かつんとくるものがあった。
 
桑の実というと、養蚕をしていた田舎には桑畑がたくさんあり、初夏になるとその実が色づいて、子どもらは遊びながらたくさん食べたものだった。紫色の汁がついて、指や唇はその色にべっとりと染まった。服につくとなかなか落ちなかった。
この色を、私の郷里飯山では「ぶすた色」といった。
ぶすた、とは何のことかよくわからない。信州の北部に広くある方言らしく、ぶすと色、ぶすんど色などともネットには出てくる。プールで冷えると唇が紫色になるが、要するにその青紫色である。
 
歌詞では「桑の実を、小籠につんだ」という。しかし、よく熟れたものは、そんな上品にはいかない。柔らかくなっているから、積むと自重でつぶれてしまって、下の方はジュースになってしまうからだ。
私らは、当時まだそれほどなかったナイロンの袋を珍重して、これに実を摘んで入れた。そうすると、知らぬ間にジュースができて、これを交代でチュウチュウと吸った。それは戦後の子らには格別な甘さだった。
 
怖い思い出もある。
従兄のKを先頭に5.6人で、山の桑畑に実を食べに向かったことがあった。その畑には大きいうまい桑の実がたくさんあるのだが、山ババが番をしているので、見つかると捕まってしまう、と脅かされ、半分びくびくしながら2キロほどの田んぼ道をこえて裏の山に出かけた。
今考えれば裏山は100mほどの丘だから、その半分ほどのぼって件の畑に近づいたころだろうか、「山ばばだ!」とKが叫んで坂を逃げおりた。ちび連中は慌てて一目散にその後を追って、坂を転げるように逃げ帰った。事情は何も分からず、もちろん獲物は何もなかった。
本当に山ババはいたのか、誰にもわからない。そんな記憶がある。逃げる日陰の坂道に杉の根がごつごつと出ていたことを、まだ思い出す。そんな時代があったのである。
ついでながら、桑の実は、郷里ではカナミズといった。

(今回は少し年寄りの思い出話っぽくなってしまった。)