「3密」の支離滅裂的考察

粛々とウイルス増殖す長閑なり

 

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新コロナ感染の事態はいささか深刻である。

3密という新しい言葉が生まれた。もともと密教にもある言葉らしいので、日本人は何となく肌で受け入れやすい語感があるが、換骨奪胎で言葉的には愉快である。流行語大賞の有力候補だろう。

 

辞書によれば、「密」の上部「宓」ヒツは屋内に閉じこもってひっそりしている意で、下部「山」と合わさって、山がひっそりしている意味の漢字だという。そこからひそかの意を表し、また必に通じて、隙間がないの意味となる。という。

 

したがって、3密を避けて家にじっとしているということは、漢字の元来の意味からいえば、まさに「密」にしているということであり、密のニュアンスが逆になる。今は密を避けるのではなく密にしているべきだ、ということになる。

 

3密とは何かというと、

1.密閉空間(換気の悪い密閉空間である)、
2.密集場所(多くの人が密集している)、
3.密接場面(互いに手を伸ばしたら届く距離での会話や発声が行われる)
という3つの条件が同時に重なる場では、感染を拡大させるリスクが高いので、それを避けよう、ということ。(厚生省)

この3つの蜜をまとめると、日本語では「集る」(たかる)という言葉がぴったり当てはまりそうだ。「集るなよ!」ということなのだ。

 

また、「濃厚接触」も頻繁に出てくる言葉で、国立感染症研究所感染症疫学センターは、感染者が発病した日の2日前から、その人と1メートル以内かつ15分以上の接触があった場合、と定義している。

 

蟻は忙しく歩き回って餌を探し、仲間と触角を触れあわせて情報交換をしている。これは濃厚接触である。そして地下の巣には卵がたくさんあり彼らは寄って集って生きている。

今回、ロックダウンの外国の町、自粛要請で閑散とした日本の都市をテレビで見ていて改めて感じるのは、人間も蟻と同じで、3密で集るのが社会の基本的形であり、濃厚接触が生存の基本的形だということだ。

人は濃厚接触で他人を認識し、逆にそれで自己を認識する。それが人間が社会的生物となる原点に思える。さらに3密の集りでコミュニケーションを複雑にして高度な分業社会を構築している。とすると、3密を避けるのは、人類文化の危機だと言えないだろうか。テレワーク、テレビ会議で対応するよ、とかいう対症療法レベルではない何か根源的な問題ではないだろうか。

新型コロナ感染は、文明論的?に、文化人類学的?に、社会学的?に大きなエポックとなるだろう。社会がどう変化するのか、気になる。

 

新型コロナと共存する新しい生活様式が謳われている。フィジカルディスタンス2m、手洗い、マスク、屋外、真正面で話をしない、など。握手もよくないだろう。これは欧米のハグ、キッス文化の否定だ。でも奥ゆかしい日本人なら適応できるかもしれない。奥ゆかしさとはソーシャルディスタンスが大きな要素かもしれない。

 

私の亡母は、「みつゑ」という名前で「おみつさん」と呼ばれたこともあった。いわばサンミツの反対である。クラブの仲間に「密枝」さんと書く方がいるが、母の名ももしかしたら「密」だったかもしれない。みつは、光、満、美津などとも書かれるが、かつては寺の住職に名前を付けてもらうようなことがあったとすれば、「密」も有力に思える。漢字の密は、考えれば奥ゆかしいソーシャルディスタンスの意味だったかもしれない。