「令和」と大伴旅人

楽しめやあれこれいわず春の日を
(「れいわ」を埋め込みました)
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4月1日、国民が固唾をのんで見守る中、新元号「令和」が発表された。直感的には「令」が命令や使役のニュアンスを感じさせるが、異議を唱える意味もない。
 
有史来初めて中国の文献ではなく、日本のものから、それも万葉集から採択したのだというので、さっそく渦中の中西進さんの講談社文庫の万葉集を開く。
 
当たり前だけど、国書といっても漢文だった。いわゆる万葉仮名ではない。それも梅を愛ずる当時の大陸のかっこいい流行を、そのまま真似た宴会の席の歌だ。
しかも出典といっても、令和という言葉があるわけではなく、序の文中から近くにある漢字を選び組み合わせたということであって、そういう方法なら令と和の字はいろんな文献に見出せるのだろう。
ただ、元号はやはり広大な中国漢字文化の一端であるし、漢字はたった二字で何かを象徴できるというアルファベットにはできない芸当、能力を持つ優れた文字だということを改めて感じざるを得ない。
 
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さて、令和の出典となった梅の歌32首は、大伴旅人大宰府の自宅で730年2月催した宴会でのものだ。
旅人は名門大伴家の家長、軍人であり大らかな酒の歌などでよくしられている。彼は、720年に隼人の反乱を治めるために九州に派遣され、さらに728年ころ60歳を過ぎて大宰府の長官として赴任(左遷説もある)している。その直後に妻を亡くし心情溢れる歌を残している。
宴会では、官人たちは梅や柳を髪にかざして歌い飲み、そこに白梅が雪のように散ってくる様子が思い浮かぶ。山上憶良もきている。けれど旅人の心中は決して明るいものではなかったのかもしれない。その年奈良に還った旅人は翌731年に死去している。
さらにこの歌に追記して、旅人の歌4首が付されている。よほど楽しい思い出だったのだろう。旅人の息子家持もまた、この宴を傍で見ていてよく覚えていたに違いない。万葉集の編纂にあたって、家持は父の老年の楽しい思い出を、丹念に書き残してあげたのだろう。そんな気がする。家持自身、大伴の名門ではあるが地方回りをさせられ最後は蝦夷の治安で派遣された仙台市多賀城でなくなったとも言われている。
父の心情は痛いほどわかっていたに違いない。
 
令和の起案者はどなたか分からないが、栄華の政治的中心人物ではなく大伴氏を取り上げた。もしかしたら万葉集のこの梅の花をとりあげることによって、家持や旅人、そして大伴氏への哀惜の心を表し、さらに元号として採択されることによって大伴氏を復権したいと、密かに狙っていたのではないか。そんなちょっと深読み(妄想)をしている。