ことしも白萩

黄蝶きて萩さわぎ立つ日の光


白萩が満開になった。遠慮なく花をこぼしている。

そして決まったように黄色の蝶が2,3匹やってきて、花叢の上でくるくると舞い踊り、舞い降りて枝にとまりじっとしていたと思うと、早々にまた高く上がったり。賑やかで楽しそうだ。見ていると秋の日差しの中でいっとき放心する。

この蝶はキタキチョウ(北黄蝶)というようで、モンシロチョウやモンキチョウなどに比べいくぶん小ぶりだ。萩のようなマメ科を食草にしている。決して派手ではない萩にとって良い取合わせに思える。

 

それにしても萩はほろほろとすぐに散ってしまう。その様がまた美しい。

束の間の花を、誰かに見せたいと思うのは、今も万葉の時代も同じようだ。旅人と家持父子の萩の歌があった。家持の歌は父の剽窃か。

 

大伴旅人

わが岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも(巻第8:1542)

(わが家近くの岡の秋萩の花は風がはげしいので、散りそうになってしまった。見る人もあってほしい。)

大伴家持

わが屋戸の一群萩を思ふ児に見せずほとほと散らしつるかも(巻第8:1565)

(私の家の一群の萩を恋しい子に見せもせず、ほとんど散らしてしまったことだ。)

(「万葉集中西進 講談社文庫より) 

 

こういう歌もいいのだが、実生活風景の中では、一茶がリアルだ。

宮ぎのや一ッ咲ても萩の花

道ばたへ乱(れ)ぐせつく萩の花

露の世を押合へし合萩の花

 

わが狭い庭の萩は、放っておくと暴れて収拾が付かないため、切り込んで切り込んで小さくしている。可哀そうだが仕方ない。

「一かぶに道をふさげり萩の花 一茶」