チガヤまたはツバナ

空につづく径浄めたる茅花かな

この季節、チガヤの花穂が真っ白に風になびいて美しい。

白というより光というほうが感覚としては近いかもしれない。俳句ではこの風を「つばなながし」といい、特別扱いしていることでも、この花穂に対する日本人の思い入れが分かろうというものだ。

 

ツバナというのは後年覚えた言葉であって、私は子供の頃チガヤとよんでいたように思う。農道の脇にも堤防にもいくらでも生えていて、農家にとっては手を焼く雑草であったはずで、当然、美しいというような情緒的な視点は少なかった。

 

けれど田舎の子供たちはこの花穂を食べた。半世紀以上前の記憶であり、おぼろげになっているが、確かまだ呆ける前のさやに納まっている若いものを口に入れて噛んであそんだ。草のアクがなく、甘いというかうっすらそんな気がすると言う程度の味だった。けれどしばらく噛んでいると未熟な花穂は次第にガムのようになった。その感触を楽しんだような気がする。

特別に必要に迫られてツバナを噛んだわけではなく、チューインガムなどそうそう手に入らない田舎のこと、子供はスイバでもカタバミでも路傍に生えているちょっとしたものを口に入れた。鬼ごっこしているときも、お使いに行く途中でも、学校帰りの道すがらでも、老若男女ともそんな風に草と付き合っていた。今ではママに叱られるだろう。こんな風習も昭和30年代頃に急減した。(嚙んでガムのようになると言えば、麦はしっかりとガム状になった)

 

チガヤは茅萱と書くが、茅はなぜチとよむのか私には分からない。

漢語でチガヤのことを白茅というところから、このボウとよむべき茅の漢字にチ(またはチガヤ)という訓を当てたらしい。記紀万葉の時代に既にそうした例が多数ある。

松田修氏の「万葉植物親考」では、チは千、血または漢名の茅の音読みの説があるが、茅の音読みが適当だろう、としている。でも茅はチと音読みするのだろうか?疑問である。それよりも数が多いから千で、チの草(かや)とする説あたりが、いかにも平凡で妥当に思える。

茅の花穂がツバナであり、漢字では茅花とも書く。松田氏はチがツに転じたと述べているが、私の当て推量では、もともとチもツもあったのではないか。そしてツバナは唾の菜というような意味合いも持っていたのではないか。

 

そんなこんなを想像しながら、一時ツバナの光の中でうっとりしている。