藤村「夜明け前」やっと終わって

夏籠る長編小説傍らに

 

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島崎藤村の「夜明け前」をようやく読み終えた。岩波文庫で4冊ある。コロナと猛暑対策としては、いい選択だった。この本は興にのって一気読みする類のものではないので、今日は10ページ、明日は30ページ、というように日々のルーチンとして本を開いたので、2か月はゆうに掛かってしまった。

でも藤村はこの小説を中央公論に足かけ7年、年4回掲載というロングランだったのだ。

 

藤村の若菜集には一時夢中になったことがある。それは自分の熱き心を代弁しているようだった。言葉のもつ調べの魅力を教えられたのもこの詩集だった。その後「破戒」を読んだが、ドストエフスキーニーチェなど巨人の世界に触れた後ではさしたる感興も引き起こさなかった。すでに藤村は関心の外にあって「新生」なども未だ手にすることはなかったが、ただ「夜明け前」はどういう訳か読むべきものとして、ずっと私の頭の中にあった。

 

読後感を、と思ったが、なかなか言葉になってこない。理解しようとすると簡単に数行で整理できない厄介な書物だ。

明治維新前後の動乱期の歴史小説でもあるし、モデルは藤村の父親であるから、生家を舞台にした彼の自己探し、私的な小説の面もある。ちょっと類例の少ない書きものである。壮大な稗史とでもいうのだろうか。それが第1の感想。

 

一部江戸期末の幕府内の政治力学や英仏など列強の思惑などをページを割いて解説している部分もあり、これは退屈であったが、もしかしたらそれは発表当時としては、まだまだ広く知れ渡っていない知識でもあったのかもしれないと理解しておこう。だが、そうした教科書的な部分ではなく、馬籠の宿という地方の定点、しかも交通・情報の要衝である一地方から国情を見ている部分がやはりリアリティがあった。馬籠という宿を、時代という行列が通り過ぎていく。土地から離れえぬ人々はその中で変革を理解しようとし、自分の務めを果たして生きていく。

宿という制度がどのような運営がされていたのか、初めて知ることができたし、平田国学が果たした政治的役割も参考になった。廃仏の嵐を受けた寺の住職も存在感があったし、木曽や江戸東京の市井の人々も魅力的に描かれていた。

主人公とて特に華々しい活躍をするわけでもなく、時の流れの中で普通の人として悩み、煩悶して死んでいく。長編の最後は、主人公の入る墓穴が掘られる描写でおわるのは心に残る。

 

第2の感想は、藤村の個人探究というべき面だ。

藤村は、狂人となり座敷牢で果てた父親を、明治維新の激動の中を生きた市井の一人の人間として、理解してみようという試みだったのだろう。それが、父を鎮魂し復権することになり、しいてはその血を引いた自分の贖罪にもなる、と考えていたのかもしれない。彼自身7,8歳で親元を離れ、14歳の時に訪ねてきた父親を理解できず疎ましく思ったきりで、父は他界してしまっている。おそらく葬儀にも帰らなかったのかもしれない。

この父を時代の中に正しく理解し表現することは、彼自身にとって自分の血の責務であり、それを果たすことで、自分もまた時の流れの中に正当に位置付けられる。そんな心理があったのではないか、とも思える。

主人公半蔵(藤村の父)はその父吉左衛門をとても大事にする場面がいくつか描かれ心が温まる。これは藤村の実父への叶わぬ思いの反映かもしれない。しかし半蔵が次第に狂気にかられ死に至る有様を、半蔵の内面とその行動とを淡々と克明に描く筆致には、冷静な物書きの業ともいうべき凄みを感じさせる、何と因果な性分だろう。

 

総じて抑えられた筆致で事実が綴られていて、古典の悲劇を読む様なある種の清澄さあり、読後感は決して悪くはなかった。

でも、面白いから読んで見なよ、と気軽に他人に進めるような代物でもないのだ。

 

読後感というより、中学生のメモになってしまったが、半蔵を思いながら、馬籠、妻籠、王滝あたりの秋を散策したい気持ちが湧いてくる。ここにこうした人間が生きていた、という現場感を味わい、花の一つも手向けに訪れたい気持ちになる。恵那山も遠望したい。