神の「沈黙 Silence」

冬晴れや梢の先に答えなし
イメージ 1
 
何か気になったので、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」をみた。遠藤周作の昭和41年の小説だから、もう半世紀前の作品の映画化ということになる。しかもアメリカ人の監督。なぜ今なんだろうなあと思いながら。
あらすじは、島原の乱のあと2人のポルトガル人宣教師が決死の覚悟で密入国し、逃げ回りながら布教をするも1人は殉教、主人公の1人は狡知な奉行に責められ棄教し、妻帯し江戸で死ぬというもの。

映画通ではないので、感想といっても他愛ないことで、非常に原作に忠実なこと、真面目に丁寧に作られていること、程度のことだが、3時間近い長い映画にもかかわらず退屈することなくあっという間に終わってしまった。それだけ運びがうまいということなのか。
 
個人的には、キチジローというイエスにおけるいわばユダのような重要な役割の男は、もっと卑屈な頭の悪そうなアジア的相貌であるべきだとか、主人公の宣教師が棄教して江戸で死亡し荼毘に付される折、だれにも知られずメダイユを握っていたという原作にない演出はセンチすぎる、などというささやかな感想はある。以前読んだ隠れキリシタンの口伝の聖書「天地始之事」(てんちはじまりのこと)を思い出しながらみていて、聖画を筵のような下からチラッとおぼろげに見せる場面があったが、あんなところに隠さないんじゃないか、などと瑣末なことを感じていた。
 
昔小説を読んだときには、神はいるのか、神の沈黙の中で信仰は可能か、殉死する強い信仰がなくてもなお神の名において救われうるのか、などという大きな信仰の問題よりも、日本は沼のようなところでキリスト教も大日に変質し、本当のキリスト教ではなくなる。唯一絶対神とか神との契約などというキリスト教の核心は日本では理解されない。そんな日本の宗教風土に目を見開かれたようなとらえ方をした気がする。これは身近な田舎クリスチャンを見ていて私が抱いていた疑問であったし、自分の心にある傾向でもあった。
 
この映画では、私は宗教のグローバリズムの問題が気にかかった。
アメリカの大統領は聖書に手を置いて神に宣誓する。アメリカの自由・民主主義はキリスト教と不可分のようだ。当然その価値を同じくする国を増やそうとする傍らには、キリスト教があるのだろう。経済でも文化でもアメリカ発のグローバリズムが世界を席巻している。そうして厳しい宗教対立を生み出している。これは映画でイエズス会が強引に世界に布教した構造と似てはいないか。


主人公の宣教師は、日本の奉行との討論で「真理は普遍的だ」と自信満々に言うが、奉行はそうではない、と反論する場面がある。
キリスト教の真理は、文化の違う他国にとっても普遍的な真理なのか、アメリカのグローバリズムは世界の真理なのか。まさにそれをテーマとして展開するために小説「沈黙」選ばれたのではないだろうか。そんな気がした。
私はマーティン・スコセッシ監督がどんな映画を作ったのか知らないし、この作品について監督が何か語っているのかどうかも知らない。だから私の受け取り方はまるで的外れかもしれないが、どう観るかは私の自由。
 
今回、映画と原作とを照合しようと本を探したが、今どきこんな本は売っていないことにちょっと驚かされた。あのころはドストエフスキーの延長で読む人も多かったように記憶する。