装飾古墳の郷から(シリ-ズ風景の中へ24)

狗尾草(エノコロ)は匿うつもりか円古墳

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(山鹿町:オブサン古墳 西南戦争の弾跡が石室の石に残されている。
よく手入れされていて感心する。)

引き続き、熊本県の八女、菊池あたりを歩いている。

大和王権新羅征討を妨害した筑紫の国造、磐井は1年半の抗争の結果敗死する。彼の墓は八女の岩戸山古墳であり、それは石人石馬で飾られていた。ところが、この乱のあと石人石馬はぱったりと作成されなくなったようだ。が、その文化は地下にもぐり、古墳の玄室に鮮やかな絵を描いたり彫刻をほどこした、いわゆる装飾古墳が華やかになる。

 

熊本県立装飾古墳館という珍しい施設があり、そこで「生きていた石人」という20分ほどのオリジナル映画を見た。映画では石人づくりの文化が装飾古墳文化に引き継がれたことを、さらには磐井がこの地の偉大な英雄であったことを、熱く語っていた。これには正直驚いた。歴史は知識ではなく血肉なのだと教えられる思いだった。

古墳館には、この地域の13の装飾古墳の実物大のレプリカが展示されておもしろい。また横山古墳を移築してあり私も玄室を見せていただいた。(正直あまりはっきり見えない)

 

山鹿町に移動すると、市立博物館職員の案内で「チブサン古墳」の中に入ることができた。1日2回の見学時間がセットされていて、100円で見学できる。

図柄がおっぱいのように見えることから、地元で乳の神様として信仰され「チブサン」の名がついたのだという。湿気て暗い狭い地下は決して気持ちが良いものではないが、前室からガラス越しにじっと目を凝らしていると、次第に目が慣れてきて図柄が見えるようになる。

これは6世紀中ごろのものだが、大胆な図柄、鮮やかな色使いが、現代芸術のようにもみえる。生前、剛勇で鳴らした英雄たちの死後を華やかに彩り、一瞬たりとも寂しい暗い思いにさせない、というがごとく血を沸き立たせるような華やかな部屋である。


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チブサン古墳の壁画 左の双の丸模様が乳房にみえる?
(古墳前におかれたレプリカ)
 

装飾古墳というと、奈良の高松塚古墳の大陸風な壁画を思い出すが、それは時代がだいぶ下って、7世紀末から8世紀初頭である。これに対して九州の装飾古墳は56世紀が中心であり、描かれているものもまるで異なっている。丸や同心円や三角などの抽象的な模様から、船や馬、弓を入れる武具である靫(ゆき)など具象的な模様が画かれている。こうした模様は中国や朝鮮にも類似したものがなく、独自なものであるらしい。

一般的には、丸は鏡、三角は直弧紋の直線を簡略化したもので、死者を守る避邪の呪術。馬や船は黄泉の国へ行くためのもの。武人や武器は死者の眠りを外敵から守るもの。などと解釈されている。仏教以前の古代人の心のありようを探る貴重な史料である。このような文化に私は濃い南の血を感じるが、定説はない。

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人物や盾などの浮き彫り
熊本県立装飾古墳館のレプリカ)