Who has seen the wind?

Who has seen the wind?

もちろん Neither I nor you。でも、ロセッティは木の葉のゆれや木々の揺らぎを「見る」と風を知覚できるよ、と詠う。一方、万葉集額田王はロセッティより千歳以上も年上だが、
君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く

簾がゆれるのは、恋の気配である。ロセッティは「見る」認識の問題であり、色気は全くない、季節もない(冬ではなさそうだが)。額田王の歌は人生の営為。
 
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる藤原敏行 秋上)
これは良く知られた古今和歌集の秋の部の巻頭。
日本人は「聞く」ことに敏感で、この歌の「風の音」の聴覚は秋にまつわる情緒の引き金となっている。「聞く」ことに日本人独特の感性があるとはよく言われるが、秋の虫の音に対しても、日本人は右脳で反応し、西洋人は左脳で反応しているという説を読んだことがある。分析しているのではなく音楽と同様に鑑賞しているということらしい。
 
風を見るといえば、風見鶏を思い浮かべるが、これも西洋伝来のもの。日本には風を見るものがあるのかな。・・・いやいや吹流しがあるな。風車もあるな。

駄句を。

 
秋風を見よと薄の白さかな
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(こういうのを「季重ね」、というのかな)