曼珠沙華は古典には出てこない?

曼珠沙華茎をみどりに揃え持つ
 
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(最近は黄色や白もよく見かける)

この花は古くから日本に生えていたはずで、よく目立ち、彼岸花死人花キツネノカミソリなどといろいろな呼び方をされるが、どういう訳か日本の古典にはあまり登場しない。
万葉集にはイチシの花という一首があり、これを曼珠沙華だという説を牧野富太郎博士が提唱し、今はそれが支持を得ている。万葉集にイチシが顔を出して以後、この花は和歌にも現れないという。
おそらく日本人の眼には、この花は、歌うべき花として認識されていなかった。変な言い方だが、ある種のキノコ、例えばベニテングダケを見るような認識ではなかったかと思われる。
 
しかし真っ赤なボタンを好んで句におさめた蕪村なら、曼珠沙華に注目したのではないか。期待して調べてみたら、わずかに、
まんじゆさげ蘭に類て狐啼く  蕪村
という(分かりにくい、つまらないと私は思う)句が出てきた程度である。この句に彼の漢文の素養を見ることはできるが、あの蕪村にしても曼珠沙華の美しさを取り上げる目がなかったのだ。不思議なことである。(句の意味は、ネットに様々な解説ブログがあるので参照)
 
西鶴には 折る人もなき片野べの山慈茄(しびとぐさ)
一茶には なむだ仏なむあみだ仏まんじゆさ花
という句があるが、いずれも不吉な花という固定化したイメージを読んでいるだけの句。
この花自体の美を詠えるようになるのは、明治まで待たなければならないようだ。
 
似た現象を探してみると、ドクダミ(十薬)についてもいえるかもしれない。これも文学の題材となるのは、近代になってからではないだろうか。エノコログサもそうかも知れない。(よく調べてないが)。
 
花(自然)を題材にできるかどうか、いわば花についての認識の変化(進化、深化)は、実は日本の思想史上重大な出来事であるはずで、これには子規が主唱した月並みを排して写生する精神が、大きな契機となったのではないだろうか、とぼんやり想像する。月並みを排し虚心にものを見るという精神が文学の題材を広げていくことつながったのではないだろうか。
 
では、子規の曼珠沙華の句は?検索すると27句ヒットする。思いつきで拾ってみると、
葉も花になつてしまうか曼珠沙花 明治24年
田の中の墓原いくつ曼珠沙華 (明治31年
じゅずだまの小道盡きたり曼珠沙華 (明治33年)
駄句・月並み句から始まって、最後の句になると、固定観念から脱却して新しい俳句にはなりえているように私には思えるのだが、どうか。