一の宮参拝 住吉荒魂本宮(長門国:山口県)

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門司港から関門連絡船にのると7,8分で下関唐戸に着く。寒風で海峡の波は荒い。少し離れて関門大橋が見上げられ車が行き交うのが見える。海峡は最狭部がわずか700mしかなく、地下歩道もあるときき興味は湧いたのだが今回は船にした。

観光客で大混雑している唐戸市場でとらふぐの刺身を食べる真似だけして、赤間神宮におもむき、平家一門の墓やら耳なし芳一のお堂などを忙しく見歩いてから、バスで新下関方面に約5キロ。小高い丘陵の続く農村を高速の新道が複雑に交差する中をぬってその名も一の宮町にバスをおり、10分ほど歩いてようやく社に着いた。

平面的な地図を見慣れた目には、この神社は瀬戸内に通じているように見えていたが、実は響灘に流下する綾羅木川の上流にあり、臨む方向は響灘から朝鮮半島なのである。筑前一の宮も博多の住吉神社であり、鎌倉時代の絵を見ると現在のような街中ではなく海浜に接していた。類推すればこの長門の住吉神ももっとずっと海に近かったのかもしれず、また川船の利用もあれば、海には極めて近かったのであろう。神社は響灘の海の人たちの神であったのだろう。
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石段を上り赤い楼門を抜けると朱の柱も美しい舞殿のようなつくりの国重文の拝殿、その陰から次第に実に美しい本殿が見えてくる。この美しさはこれまで参拝してきた多くの神社の中でもトップクラスといっていいだろう。


「本殿は国宝、1370年の大内弘世の再建で、室町初期の代表的建築。九間社流れ造りといって、五社殿を合の間で連結し,社殿上の正面屋根に千鳥破風をのせ春日造りと流れ造りを組み合わせた特徴の建物です。」と神社は説明しており、横長の桧皮葺の屋根にみえる五連の破風のリズムは女性的なしなやかな優美さを感じさせ、当時の西日本の文化の洗練さをうかがわせるに十分である。


 九州、特にその北部はなべて八幡神社の勢力下にあり、どこもかしこも八幡様で聊かウンザリさせられるが、長門が住吉さんだというのは新鮮な感じすらおぼえる。ただし住吉神社といっても応神天皇神功皇后の抱き合わせである。

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五柱の神々は、左から第一殿の住吉大神応神天皇武内宿禰命神功皇后建御名方命であり、住吉の神は、底筒男命中筒男命表筒男命の三神の荒魂とされる。日本書紀によれば仲哀天皇9年、神功皇后が住吉神の神託に従って新羅をうち、帰国すると荒魂を「穴門の山田邑に祭れ」との神託を受け、社を建てたのが始まりだという。


住吉神については、次の摂津(大阪)の一の宮を参照。

http://book.geocities.jp/geru_shi_m/sumiyosi1.html


いずれにせよ、全国に2000社以上もある住吉神社のなかで、3住吉神社といわれるのが摂津、長門筑前である。記紀に記載され政権に絡んで中央進出を図った神でありるが、一方、魏志倭人伝に登場する刺青をして漁をする古い海洋民族の名残を感じさせ、玄界灘や響灘の海で逞しく生き抜いてきた人びとの潮の匂いを併せ持つ、不思議な神である。

長州(山口)まで新幹線で行くと、その遠さに辟易する。一体どうして明治維新のときに、この僻陬の地の薩長が関東を支配できたのだろう。なんとも不思議なことに思えてくるが、どうも文化は西から波のように押し寄せたのかもしれない。その基となったのは長崎の蘭学だったのか。それにしても稲作文化が西から東に伝播したように、変革の西風が吹き荒れたのだろうか。

住吉神が神功皇后伝説に伴われて、摂津まで東上したのも、稲作や神武東征や明治維新と同じ様な構造なのかもしれないなどとぼんやりと考える。

 

ところで第5殿には建御名方命が祀られている。諏訪大社の神と言われ、大国主の子であり出雲の国ゆずりの際、諏訪に逃げ込んだ神であるが、なぜこの神が長門におられるのか。これはまた調べないといけない。

 

境内は静かで、子ども連れたお母さんがきては参拝していく。のどかで質の高い時間が漂っている。こんなお社を地元にもって年中行事をくりかえしつつ人生を過ごしていくことができたらなんと素晴らしいだろうと、ふと思えたのだった。