一の宮参拝 玉祖神社 (周防国:山口県)

イメージ 1(たまのおや神社)
防府市大崎に鎮座する周防一の宮である。防府は私にとって馴染みがない町で、ホウフと濁らずに読むことさえ知らなかったくらいだ新山口からJR15分ほどの、大きそうな街だったが例のとおり人の姿はまばらである。
 
この日はあいにくの雨で、しかも観光協会に電話するとバスは一日3本だという。仕方なく防府駅からタクシーで約5キロ、佐波川を渡った対岸の山の手前に社はたたずんでいた。
タクシーの年配の運転手は良く心得ていて、

宮司さんが神社にいないことが多いので、お宅によっていきますか?

と聞く。神社に宮司さんが常駐しない神社は、陸奥の都ゝ古別神社、安房洲崎神社越中気多神社など、これまでもいくつかはあったが、朱印をいただく身にはなんとも厄介なのである。しかし、そのまま神社に伺うと平服の宮司さんがおられたので安心した。もちろん参拝客は私だけで、境内は雨の音がするのみだった。
 
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神社はとくに特徴があるわけではないが、宮司が常駐してもおかしくはない構えである。ただし同業の防府天満宮が駅の近くにあるし、旧山陽道沿いといってもバス1日3本で分るほどの閑散地である。経営は楽ではないだろう。
ある論文では、いわゆる日本創生会議の指摘した限界集落に存在する宗教法人を調べ、2040年には、神社は現在の約76,000法人のうち約31,200、率にして41%が消滅する恐れがあるとしている。因みに寺は32%が消滅するとしている。(「消滅社寺に関する試論」:全日本社寺観光連盟HPから)

地元の神社は、ささやかでも地域の歴史や芸能文化をたもち、地域のアイデンティティの一つとなっていることが多い。鎮守の森は開発から免れて貴重な自然を残しているものも多い。神社ほど世の中で「変わらぬもの」を体現しているものはないだろう。日本の文化と自然の、いわばタイムカプセルである。もっと大事にしようよ!
という私も、全国の一の宮を廻ってはいるが、近くの神社には初詣のときくらいしかでかけない。本音と建前の違いだが、やはり寺社には雑事を離れて一時でも心洗われる気持ちにさせてくれる仕掛けがないと、なかなか足が進まない。刺激の多い世の中で、小さな鳥居と社では、普通の人は振り向かない。といってパワースポット宣伝で、きゃあきゃあするのも、いまいち気がのらない。
消滅を眼の前にして、田舎の小さい寺社も管理の統合、祭りの共同化、PRなどの工夫がもとめられるだろうが、人口減少など地域だけでは対応できない課題が根底にある。憲法違反といわれるかもしれないが、文化財として、寺社の祭りや施設の維持整備など公的な保護活用を考える事態になっているように思われる。
 
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さて、祭神は玉祖命(たまのおやのみこと)である。天孫降臨神話では、ニニギノミコトに付き従った5人の神のうち1人であり、勾玉をつくる技術集団の神であったのかもしれない。玉という言葉から、カメラ、めがね、レンズなどの業に関わるものの尊崇を受けているという。しかし、
「玉作氏に直接結びつく遺跡の発見例は知られていない。近くにメノウないし水晶の産出地は存在せず、また古記録にも、これらを原石とする神宝が存在した形跡が見出せない」(伊藤彰「日本の神々」2:白水社)。玉の祭りという祭事があるが、これは明治以降の眼鏡の祭りだともいう。
ということは、なぜ玉作の神がここに祀られたのか分らない、ということである。
ただ本殿の東北隅に磐座らしき腰掛石があり、古くは露天祭祀の場であったと考えられ、滑石・燧石製の丸玉類や弥生の土器などが出土し、周辺には7世紀初頭の古墳群がある(同書)、ことから古くから聖地だったことは確かのようだ。この神も歴史の時間の中に姿を隠してしまったようだ。
 
そのほか天然記念物の「黒柏鶏」が飼育されているという。天岩戸にアマテラスがひきこもったときに、鳴かせた鶏だといわれ、このいわれから当神社では昔から飼育されているのだという。みようとも思ったが、雨がショボ降りタクシーを待たせてもいるし、あまり興味を引くこともなさそうなので、朱印だけもらってそそくさと神社を後にしたのだった。
 

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山頭火の生家跡を街の一角に訪ね、そこから彼が幼少のころ通ったという「山頭火の小径」をぶらぶら歩いた。山頭火による街づくりが行われている!しばらく行くと天満宮の鳥居前に出た。参道わきに「うめてらす」という観光会館があるが、人影はまばらだ。
防府天満宮は、大宰府、京都とならんで三大天満宮といわれることがある。人気でも規模・結構でも玉祖神社を上回りそうだ。本殿は小高い丘の上にあり階段を少し登る。少し疲れが出てきたか、しんどい石段だった。で、上り始めたら、つつっとおばさんが近づいて来ていろいろ説明してくれた。
道真が大宰府に向かう途中、この地の国司土師氏のもとに寄って、嫌疑の無罪の知らせを40日待ったこと、しかし結局知らせは来ずに失意のうちに大宰府に向かったこと。道真が死去したあと、日本で初めてその御魂を祀る神社をこの地に建てたこと、従って日本で最初の天神様であること、などをお話してくれた。
楼門は明るい赤を基調にしてにぎやかで開放的なつくりである。海のほうから参道が続き門前町を形成しており、昔はさぞ賑わっただろうと思われる。
伊藤博文9歳のころ、天満宮の坊に寄寓し学んだといわれ、その姿看板があったので、並んで記念写真を一枚。防長は維新の渦の中心なので、高杉晋作やら三条実美などの逸話に事欠くことがない。
天神様に参詣するころには雨が上がって、空も幾分明るくなった。今回は太宰府天満宮にも参拝したので、私は両社にお賽銭以上の盛りだくさんのお願いをしてしまった。もう受験をすることもないのだが・・・。