檸檬とレモン

硬いまま酸いままレモンもぎ取られ
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お隣から完熟レモンをいただいたので、色紙に描いた。写真の代わりに掲載。
完熟のレモンは、ただやたら酸っぱいだけでなく味のある甘さがある。しかも大きい。田舎に暮らしているので、こういう本当の美味いものがいただけるのでありがたい。
昨今は地もののレモンも朝市などで結構手に入る。一昔前は貿易自由化で、オレンジ・レモンはカルフォルニアのサンキストばっかりだった記憶がある。またTPPでどうなることか。

レモンといえば、われわれ世代は梶井基次郎の『檸檬』を思い浮かべる方も多いだろう。鬱屈した青年が檸檬を買って懐に入れ、丸善にはいり、本を積み上げてそこに檸檬を配置してそのまま出てきてしまう。そして檸檬が大爆発することを夢想する、という筋といえないような筋しかないが、描かれているのは彼の感覚である。短絡的に言えばテロの衝動だ。小説というよりも詩に近いのかもしれない。
鬱々した青年は檸檬の色や冷たさ、手触り、重さを、存在の確かさみたいなものとして受け止める。そして「 つまり、この重さなんだな」と呟く。この場合はレモンは漢字で書かないとだめなのだろう。

ただし気をつけて読むと、このレモンはカルフォルニア産だと、かいてある。ということはサンキストだろう。そしてせいぜい掌で包むほどのもので、青みの強いものだったかもしれない。この重さ、といっても大したことはない。とても爆弾にはなりえない。
一方、地のものの完熟レモンは、スーパーのものの2倍ほどはあるし、色も青っ白くはない。掌にはいっぱいになるし、「この重さ」といわれるに値する質量である。立派な手榴弾になりうるだろう。
写真でよくみる梶井基次郎の、いかつい顔立ちから想像しても、小さい輸入のサンキストでは「檸檬」の主人公には役が重すぎるように思える。

ある人が、レモンと言えば「智恵子抄」の「レモン哀歌」だという。このレモンはよく稔った滋味豊かなレモンであったと思いたい。
そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ

この詩人は、健康的な心身を持ち、お洒落な芸術家であることがイメージされる。
けれど、これを読んでただちに思い浮かべるのは賢治の「永訣の朝」ではないか。

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
 (あめゆじゆとてちてけんじや)

私は、そんな説が既にあるのかどうかしらないが、光太郎は賢治を下書きにしているように思えてならない。死の場面の異様な明るさ、レモンとあめゆじゅ(そしてこれが最後の食べ物、天上のアイスクリームとも書かれる)、大きな構成が共通している。

また余計なことを書いてしまった。